第3話
……結局いつものように彼女に押し負けて、メリクは王宮魔術儀式場である【
メリクは分かっていた。
こういう時はもう、第二王子からの激しい叱責はむしろ覚悟の上で行く。
リュティスが承知したのが例え本当であろうとも、もう分かっているのだ。
やむにやまれぬ状況ということがあるだけで、メリクを王家に関わらせることをリュティスが喜んで承知するはずがない。
ということはアミアに無理矢理承諾を迫られている可能性が大きく、要するにすでに怒りは頂点に達しているはずだ。
こういう時のメリクの出来ることといえばひたすら恐縮し、
申し訳ないことを示し、
頭を下げ、
その上でふざけるな貴様なぞ呼んでいないと怒鳴られたのなら、分かりましたと直ちに辞退するだけだ。
かつてメリクは、従順にしていればいつかリュティスが自分を少しは、好きになってくれないか、などと考えていたこともあるのだが……今はもはや自分は、いつかリュティスの心が自分に対して溶けることなど、何一つ期待を抱かなくなっていると彼は自覚があった。
一緒に行くといって離れなかった王女ミルグレンを一生懸命なだめてから来たので、すでにリュティスはいるだろうと急いで駆けて来たのだが、中にはリュティスの姿はまだ無かった。
メリクは少し乱れた息を整えて中に入った。
この【斜陽殿】では、メリクも何度も魔術をリュティスに習った場所である。
神儀を行う広い舞台と祭壇が置かれている。
祭壇から見上げる壁に大きく描かれた、竜を戴くサンゴールの国紋……。
メリクはじっとそれを見上げた。
『これ』に関わりたいと思ったことは一度も無かった。
少なくとも、自分がリュティスに疎まれていると自覚を持ってからは一度もない。
アミアやリュティスの力にはなりたい。
でもそれに野心をすぐ結びつけられるのは嫌だった。心外だった。
(でもリュティス様なら……本当に僕に関わらせるべきではないと思われたら、いくらアミア様の願いでも、僕が神儀に関わることを許したりしないはずだ)
リュティスがとりあえず黙認したなら、自分の役目だけを正しくこなせばいい。
それ以上も以下も考えなければいいのだ。メリクは自分に言い聞かせる。
――と、そのとき後ろの扉が開く音がして、振り返ればリュティスの姿が入って来た。
いつもの黒衣に、深くローブを被ったままの彼は、長い法衣の裾をさばきながら 【斜陽殿】の真中へとやって来た。
メリクも慌ててそこへと駆けていった。
腕を組むリュティスの全身から、やはり不機嫌さが伝わって来る。
「……本来ならお前如きが覚える必要も無い神儀だが」
低い声でリュティスが言う。
メリクは深く頷いて、視線はずっと下に落としていた。
「もう一人の王族たる女王がああも魔力に見放されていてはな。教えられるのが俺だけだというのも全く気に入らないが。致し方あるまい」
リュティスが袖に隠していた手を出した。
「一度しか教えぬ。完全に覚えろ」
「はい。」
メリクは気を引き締めた。
リュティスは神官の【洗礼式】の段取りをひとまず説明してから、神儀の内容に説明を移した。
サンゴールの秘術になる特別な魔言だ。
四種の精霊を招き、銀の装飾品に施す印術の形。
四種の魔法で封印を施すには、全ての精霊を同価に集めなければならない。
厳しい精神修行と祈り、瞑想に熱した高位神官だからこそ操ることの出来る秘術だが、幼くして厳格の魔術師たるリュティスに師事を受けたメリクは、指先一つほどの僅かな感覚でも操ることが出来た。
あの王立魔術学院――魔術の解明が進む度に、より短く効果的な呪言に移行し、そういう魔法を使い慣れている若い魔術師達に、若干危惧を覚えてもいる【知恵の塔】の宮廷魔術師達でさえ、舌を巻かせた厳正の技である。
メリクが今、この場で教えた魔言を、その場で苦しげもなく繰り返してみせる姿を見て、リュティスはかつて――幼子だったメリクに対して感じた不信――この子供は必ずサンゴールの平穏を脅かす存在になる、と彼自身が思ったことを思い出していた。
【
かつては魔術の概念も知らず、サンゴール式の発音にさえ四苦八苦していたメリクが、今まではリュティスの示す魔術をいとも簡単に会得してみせる、この現実。
そしてそのメリクに魔術を理解する力を与えたのは、間違いなくリュティス自身なのだから……運命とは全く奇妙なものだった。
アミアがサンゴールの魂とも言える魔術を請け負えない以上、それを名代としてこなすのはリュティスしかいない。
ミルグレンなどには最初から期待する方が無駄なことは分かっていた。
魔力と精神共にあの娘は母親譲りなのだ。彼女はアミアと同じように魔力というものに見放されている。
……神儀にだけはメリクを関わらせない。
それはいついかなる時も、女王の信任を受けて、その養子になるのではないかという民や臣下の愚かな邪推を王家が唯一、そんなことはありえないのだと示せる事実ではなかったか。
だがアミアがついに、その慣例を破ろうとしてる。
例によってあの何の意図もない、愚かすぎる浅はかさでだ。
……今回のことに関して、実はメリクに伝えていないことがある。
今回神儀にリュティスが出席出来ないとなった時、当然のことながら任命式も洗礼式も先延ばしにされることになっていた。
それは自然の成り行きだったのだが、延期の決定が下されたその日に、アスラの大神官側から提案があったのだ。
式を先延ばしにせず、女王の名代としてぜひに執行してもらいたいと、彼らが推薦して来たのが、メリクだったのである。
正直なところ、リュティスにはこれは意外だった。
ただでさえ大神殿はサンゴール王家の権威の守番だと、王家に不純が交じるのを毛嫌いしていた。
今までメリクの存在に、いちいち神経を尖らしていたのも大神殿である。
メリクの後見に軍部大臣のオズワルト・オーシェが立っている以上、騎士団はメリクに対して姿勢が柔らかいが、大神殿は頑なだったのである。
――その彼らが初めて、メリクを自ら推した。
アミアなど暢気に喜んでいるが、リュティスはこれをはっきりと自分への牽制だと読んだ。
【竜の
リュティスはここ最近幾度も討伐に赴き、その土地を鎮めたのだが……。
自分の魔力の底を、リュティス自身も見たことはない。
だがそれでも近頃、自分の力が以前よりも増しているような確信があった。
竜は魔術界では魔物ではなく【精霊の亜種】とされる。
そのため魔力では本来竜を制御する一手としては相応しくない。
かつては竜は【魔術師喰い】とも呼ばれていたことがあるのだから。
だが、リュティスは魔力の一撃で竜を葬ることも出来る。
増えるリュティスの魔物討伐に竜の死骸が【竜の墓場】に連日運び込まれるのを見て、大神殿が危機感を抱いたのだとしたら。
それは彼らがリュティスが、アミアカルバに力を以て退位を迫ることがあるのかもしれないと、読んだからに違いなかった。
つまり大神殿はアミアカルバをサンゴールの本流と言い、リュティスを王位を狙う者だと警戒したのだ。
(俺が王位算奪者だと?)
これ以上の屈辱があろうか?
リュティスは神殿の意図を正しく理解した時から、腸が煮えくり返りそうな思いをしていた。
(愚か者どもが。
サンゴール本流とは忌々しくも、
竜の業に取り憑かれた先代の王メルドランの血筋を指すのだ。
その子である俺こそが、正統な王位の継承者)
アミアカルバなど所詮アリステアの姫。
サンゴールの伝統も知らぬ。魔力も持たない。
あるのはグインエルへの愛、幼稚な思いだけだ。
それだけであの女は玉座に座っていると、リュティスは改めて忌々しく思っただけだった。
リュティスは無意識に首に掛けた飾り……兄グインエルの形見である、王家の首飾りに服の上から触れていた。
(これがお前の願いなのか? グインエル)
国を守るべき神殿が国の本質を見失い始めている。
(このサンゴールの現状が)
リュティスを牽制する為に大神殿が、長年忌み嫌っていたメリクに媚を売って、取り入ろうとするとは。
(………………愚か者どもが)
暗い感情が、ここ数日胸の奥に渦巻き続けている。
今更、力でアミアに退位を迫るくらいなら、最初からあの女に玉座など許しはしなかったとリュティスは思っている。
正統なサンゴール魔術の継承者であるリュティスより、魔術に縁の無いアミアを大神殿が支持した。明らかに、自分たちにとってアミアの方が扱いやすい王だからだ。
これがサンゴールの退廃の兆しでなく何であろうか?
怒り、……同時に感じるのは虚しさなのだろうか。
リュティスは自分の私欲の為に力を行使したことなど一度も無い。
リュティスが強すぎる力を敢えて使うのは、いついかなる時もサンゴールという国のためのみである。
それはサンゴール王国第二王子としてのリュティスの矜持だ。
両親に疎まれた【魔眼】の強すぎる力も、国の為に必要な剣であると考えることで、リュティスは自分の中に存在させて来た。
――だがサンゴールの者達はその力の顕われを、野心と呼ぶ。
今に始まったことではないとはいえ。
(サンゴールの『国の誇り』とはどこへ行ったのだ)
これは紛れも無くアミアを女王にしたことによって、起きた歪みだった。
リュティスは反論する気にも今回なれなかった。
最近の連戦で昂る魔力がなかなか鎮まらず彼自身、精神的に疲弊していたのもリュティスを閉口させた理由である。
開き直りに近い心境だったのだ。
そっちがその気ならば、思うようにアミアを擁護すればいいと。
アミアカルバの番犬にサダルメリク・オーシェだろうが何だろうが、つければいい。
だがリュティスがその気になれば、いつだってメリクは打ち倒せる。
そしてそれは、アミアすら例外ではない。
今リュティスがアミアと共存出来るのは、アミアがあくまでも玉座に座るのは、グインエルの代わりにサンゴールの統治を守る、という信念の元に動いているからである。
リュティスも、何も自分が完璧な王だとは思っていない。
ただ血だけは、この現在のサンゴールにおいて自分に勝る者は一人もいない。これは、はっきりと自負することである。
もしアミアが自分の私欲の為に、このサンゴールの血を軽んじるようなことを重ねた時は、兄グインエルがこの女を妻に選んだことは間違いだったのだと、リュティスの中で確信を得た時は、アミアを葬ることにも彼は何の躊躇いも無い。
そもそもアミアという人間に対して、リュティス個人が何かの愛着を抱いているというのでは全く無いのだから。
リュティスはそう思って、今日【
それが、アミアの浅はかさとメリクに対する警戒心、そしてサンゴール王家に仕えるべき神官達の、精神的退廃としか言いようの無い判断に対して、ここ連日精神を苛々とさせられ続けた、リュティスが出した唯一の光明だった。
本質が【闇の術師】であるリュティスは四方を塞がれた場合、他者との共存に心を開くことで自分を生かすことが出来ない。
彼が出来るのは何かあった場合は自分が全ての業を負ったとしても、過ちの影すらなくなるほどに、いざとなれば破壊へと走ることが出来る――その攻撃性への確信で自らの心を御すのである。
ここでもまたその彼の本質が出たのだった。
――いざとなれば力で全てを黙らせられる。
自らの力への自信に心を寄せることで、リュティスはサンゴール王国の腐敗に対する自分の失望を、己の中で拮抗させようとした。
「…………リュティス様?」
ふと顔を上げリュティスの指示を待っていたメリクが、リュティスの次の言葉が無いことを不思議に思い、こちらを見ていた。
「……神儀の印は通常のものとは異なる。魔術印は手の構えを――」
何事も無いかのようにリュティスがメリクの動きを修正しようとして、彼の手を取った時だった。
一瞬、メリクの手首を取ったリュティスの手が、ぎり、と痛いほど強く力を込めた。
骨を圧迫するほどの軋みに、驚いてメリクが思わず肩をすくめる。
しかし彼はすぐに異変を理解したのだった。
「リュティス様……」
自分の手の甲に一筋、赤い血の筋が流れていた。
ぽた、と足元にも血の雫が落ちる。
それはすぐにぽつ、ぽつと足元に増えていった。
「――リュティス様!」
メリクがリュティスの手を振り払うように解いて、すぐにリュティスの腕を気遣う。
メリクの左手は血に染まっていたが、それは自分の血ではない。
「……、」
リュティスが自分の左腕を押さえて、忌々しそうに舌打ちをした。
彼の長い服の袖から、次々と血が流れて、床に伝い落ちていく。
メリクは突然、リュティスの身に何があったのか分からなかったが、血の量が決して小さいかすり傷のものではなかったので、慌ててリュティスの傷を確かめようとした。
腕に触れようとした時、その目をローブの奥に隠し俯いたままのリュティスが、近づこうとしたメリクに対して怒鳴った。
「触るなッ!」
床に膝をつき、リュティスが出血元である腕の関節のあたりを、右手で強く押さえている。
「……【魔眼】の負荷だ。触るな……」
「リュティス様」
「……メリク? どうしたの」
丁度様子を見に来たらしいアミアが扉の所から声を掛けて来た。
「アミア様、リュティス様が……医者、医者を呼んで下さい!」
蹲っているリュティスの様子で、アミアは直ぐさま状況を理解したようだ。
伴って来た侍女に、すぐ医者を呼んで来るように命令を飛ばした。
メリクは回復魔法を唱えようとリュティスに許可を得ようとしたのだが、すぐに回復魔法を掛けるべきならば、リュティス自身がそれをするはずだと気づく。
リュティスは【魔眼】の負荷だと言った。
感情と常に連動するリュティスの魔力。
負荷はそのバランスが著しく崩れている時に発生する。
メリクは伸ばしかけた手をゆっくりと下ろした。
ここで魔力を使うべきではない。
アミアがやって来てすぐに自分の上着を脱ぐと、リュティスの袖を捲らせて出血元にそれを押し当てた。リュティスは嫌がるような素振りを見せたのだが、さすがにアミアが「じっとしてなさい」と叱りつけて、強引にリュティスの腕を掴んでいた。
一瞬見たリュティスの傷は、何か腕に深い裂傷が走ったようなものだった。
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