焼きたての恋をどうぞ

@minkoihisui

第1話 嫌われてるの、私だけ?

 朝5時45分。ベーカリー「ル・ミエル」の厨房は、仕込みの音と粉の匂いに満ちていた。新人の綾瀬 歌恋あやせ かれんは、パン職人としての第一歩をここで踏み出して一ヶ月が経ったばかりだった。


 歌恋は他のスタッフよりも一ヶ月遅れて入社していた。浦部、笹森とは同じ時期に募集された求人だったが、面接や家庭の都合で少しずれての入社。スタートが遅れた分、現場に馴染むのにも時間がかかっていた。


「綾瀬、粉、またこぼれてる。三回目だろ、それ」


 鋭く通る声に、歌恋は思わず背筋を伸ばした。


「……すみません!」


 振り返ると、店長・佐伯 さえき まことが冷たい目でこちらを見ていた。40代、無駄のない動きと指示、そして誰よりもパン作りに厳しい職人だ。


 だが、その厳しさは、なぜか歌恋にだけ向けられているように思えた。


 他のスタッフ――浦部うらべ笹森ささもりには笑顔で接する場面もあるのに、歌恋には冗談ひとつ飛ばさない。


「……嫌われてるの、私だけ?」


 そんな疑念が、心のどこかに根を張り始めていた。

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