第16話 とある幽霊少年5

 まずい。もう俺が外に出てから、十五分も経っている。このままだと、手遅れになるかもしれない。


 プルルルル、という発信音が、人気のない梨瓜山の中で響く。電話には、誰も出ない。


 そうだ。最初から、俺は前提を間違えていたんだ。

 俺は初めて渡瀬家にきた時のことを思い出した。

 歳をとった人間は、基本的に足腰が弱くなる。俺がピンポンダッシュを容易にできたのも、それが要因だ。


 だが果たして、そんな足腰が弱っている人間に、床に落ちた皿の破片を拾わせるだろうか? 床に落ちた破片を掃除するには、どんな人間でも腰を屈めなければならない。

 それに、チャイムを押して最初に出てくるのが雫さんというのも奇妙だ。あれだけ時間をかけるなら、家にいる愛喜さんが出た方がよっぽどいい。


 つまり、あの家の中での順位は明らかに愛喜さんが上だったはずだ。もちろん年老いたことによって、その序列が逆転したということも考えられる。それによって翼真も、わざわざ殺さなくてもいいかと判断したのかもしれない。


 だが、ここにきてドタキャンするとなると、話は別だ。

 もしも、 もしも


 姉の家庭内暴力。もしもそれが渡瀬翼真の恨みの源泉ならば、今のこの状況は非常にまずい。すなわち渡瀬翼真の目的は、二人きりで雫さんと話すことではなく、愛喜さんを一人にすることになる。


 何か行動を起こすとき、決して邪魔されないように。


「な、那久良さん……。電話が、つながりません……」


 やはりか、と俺は心の中で毒づいた。

 おそらく愛喜さんのスマートフォンには、霊障による干渉がなされている。電話がつながらないのもそのためだろう。

 だがこれが霊障ならば——


「杜島さん、このスマホを通じてあっちの霊障を外せますか?」


 その言葉に呼応して杜島さんは姿を現し、スマホに手を触れた。どうやら雫さんにもその姿を見せているようで、雫さんは「え、あ、どこから……」とあたふたとしている。


「…………こちらからの声は入りませんが、マイクを奪えました。盗聴器が手に入ったと思ってください」


 杜島さんがスマホから手を離すと、スピーカーモードになったスマホから、ちょうど大きな音が響いた。

 ガシャン、というガラスが割れるような音と、ゴツン、と頭に当たるような音。


 ……遅かった。


 今の音はおそらく、リビングにある電球か何かだろう。おそらく紙か何かを飛ばしてその真下に誘導し、そのタイミングで落とした。

 渡瀬翼真は『強い力がかかっているものはほとんど動かせない』と語っていた。だからおそらく、彼は三十年をかけて少しずつ接合部を緩めギリギリのところで止めて置き、そしてついにそれを落とした。電球が緩んでは気づかれるから、たぶん吊り下げ式のライトか何かの、ねじによる接合部。


 その時、電話の向こう側から声がした。


『ねえ、姉さん。きっと僕のことは覚えていないんだろうけど。ちょっと文句を言いに来たんだ』


『……はぁ? どういうことよ? 私に、弟なんて、いないけど』


 渡瀬翼真の声に応えるように、姦しい声が劈く。だが、よく聞くと呂律があまり回っておらず、声の勢いも足りないため気取った声が空回りする。


『そんなことはいいんだよ。僕が言いたいのは……何で姉さんは、母さんにあんな酷いことをしたのかってことだよ。母さんは、優しすぎるきらいがある。自分のことを虐げる人間にさえ、変われるって信じてるからって言って耐え忍んで、それを外に一切見せない。それに甘えたのか調子に乗ったのか。姉さんは酷いことばっかりしてきたよね』


 息を呑む音が聞こえる。俺にとっては予想通りで、それ故に衝撃も大きいその言葉は、的確に愛喜さんの図星をついたらしい。


『それで、私をどうするつもりなのよ。──まさか……!』


『ふふ、そんなジタバタ暴れないでよ。それに、スマホを探そうったって無駄だよ。通報しようと電話アプリを開いても、僕ならすぐに閉じられる。それどころかイタズラ電話を装って逆に来ないようにだってできるよ』


 渡瀬翼真の声は笑っているようだが、そのイントネーションは実に平坦。深海の暗がりを思わせる狂気に、俺の額に水滴が浮かぶ。


『い、いや! 来ないで! 私が何をしたっていうのよ! あいつがあんな男と再婚するから、私はずっと不快だったし、離婚してからもよ! それをちょっとやり返したくらいいいじゃない!』


『やっぱりそんなことを言うんだね。それじゃあ、お仕置きの時間かな』


 渡瀬は嗜虐性で飽和した笑いと共に、パチン、とまるで演技のように指を鳴らした。すると、微かに『シュー』という、空気が漏れるような音がする』


『いったい何を……ガスの臭い!? やめ、やめて!』


『最近の電化製品の進歩は目まぐるしいね。スマートフォン一つで操作できるガスコンロなんて、僕の手にかかれば爆弾と一緒だよ。まあ、僕に被害はいかないんだけど。ちょっと火種を用意すれば、すぐに火事になるね。頭をぶつけて上手く動けない姉さんは、このまま焼死だ』


『やめてって言ってるでしょ! 本当に、や、やめて……』


 このままでは、本当に彼女は死んでしまうかもしれない。

 それでも俺は、とても人間性を疑うようなことを考えていた。

 果たして俺は、彼女を助けるべきなのだろうか? ずっと自分の母を虐げ続け、それを恨み続けた子供。その間に俺が割り込むべきなのか?

 間違いなく、人を殺すことは間違っている。だが、彼が自殺してしまったのも、また愛喜さんのせいだろう? これは自業自得なんじゃないか?


 こんなこと、俺は本当に思っているわけではないはずだ。だが、一度その可能性を検討してしまったことで、心に迷いが生まれる。


『何をやってるんですか! ふざけないでください!』


 突然、杜島さんが電話に向かって叫んだ。その画面を見ると、いつの間にか通話の画面になっている。霊障への干渉が進んでいるのか。


『え、その声……なんで……』


 渡瀬の声が、心なしかたじろいだように聞こえる。元同級生に糾弾される未来なんて、想像していなかったのだろう。

 彼が怯んだ瞬間、その間隙に杜島さんは二の矢、三の矢をち込む


『人の命を手玉にとって、それで神様にでもなったつもり!? こう言っては悪いですけど、そんなわけがないでしょう! 自分の行動を棚に上げてものを言わないでください! あなたが自殺して、それが“部屋”のおかげで家族にバレなかったのは、ただの結果論です。もしあの部屋がなかったら、あなたは間違いなく雫さんを追い込んで、30年経った今に彼女が生きている保証すらありません』


 俺が話しかけられているわけでもない──俺が横から勝手に聞いているだけなのに、正面から頬を引っ叩かれたかのような感覚だった。まさに『目が覚めた』ような。


『人の命を奪えば、あなたは虐待をする人なんかよりもよっぽど最低な人間です。今はここにいるからいいかもしれませんが、あなたがあの世に行ったら、49日ですぐに地獄行きになってしまいます。そして──もしも先生があなたのところににいたら、間違いなく止めます。それを、絶対に忘れないでください』


 こうして、わずか一分の糾弾は終わった。俺にはその60秒が、600秒にも6000秒にも感じられた。


『…………』


 電話の先は沈黙ばかり。だが耳を澄ませると、ガスの抜ける『シュー』という音は無くなっていた。

 杜島さんは『先生なら止める』と言った。その言葉は菜々美佳代に対する憧れから来ているのだろうが、その名前の力はここでも健在だった。菜々美という教師は、名前だけで30年間思いを拗らせてきた生徒すらも叩き直すほど、彼らに影響をあたえたのだろう。日誌ではあまり読み解けないが、その信用の高さがわかる。


『……そう。それを言われたら、もうやめるしかないね……』


 彼は、諦めたように言った。


『そうだ、どうせそこに那久良くんがいるんだろう? 彼に伝えておいてくれ』


 何だろうか、と俺は耳を澄ませた。


『僕は、三人目だった。少なくとも僕が来た時には、那久良と野仲の二人はあそこにいた。……それじゃあ、ばいばい』


 そして、電話は切れた。

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