第8話 とある幽霊
『あなた……また、来たの』
そんな返事が返ってきて、俺は一瞬、とても驚いてしまった。後ろに気配を感じるなんてこともなかったから、凄腕の忍者に背後を取られたような気分だった。
そして……別に言い訳するつもりはないのだが、そのせいで俺は腕を後ろに振り抜いていた。
あ、やべ。そう思った時にはすでに、手の甲に人を叩いた感覚が伝わって──
すり抜けた。
すり抜けた?
手の甲には、確かに衝撃と摩擦が伝わった。それは間違いない。だが、その後も腕は進み続け、今まで感じたことのない変な感覚だけが伝わり、降りぬくと同時に消えた。
あまりにも非日常すぎることが一瞬のうちに起こっている。脳がパンクしそうだ。
『ねえ。なんでまた来たんですか? 警告はしたはずなのに』
俺は声に引っ張られるようにして振り返った。耳から脳に入り込んでくるような、透き通った声。前に聞いたのと同じ。
俺の後ろには、身長150センチほどの少女がいた。少女といっても、俺と同い年ぐらいの見た目だが、身長とその童顔のせいで幼く見える。
そして本当に幽霊なのか、やや輪郭線がぼけ、後ろが透けて見える気がする。
「……お前は、あの失踪事件の関係者なのか?」
俺は彼女に問いかける。
『そうですよ。あなたは?』
「俺は那久良蒼だ」
『……、那久良君、ですか。変な偶然ですね』
彼女は、何かを懐かしむような顔をする。
『……私は杜島。あの事件で失踪した、その中の一人です』
目の前の幽霊少女は、はっきりとそう言った。
『それで? 失踪事件がまた起こったことについて、詳しく話を聞かせてもらいますよ』
『なるほど。影山……ちょっと待っていてください』
俺は廊下で、影山というクラスメイトが消えたこと、俺や、他の人間もそのことを覚えていないことを話した。すると杜島さんは、D組のドアを少しだけ開け、その中を見た。耳を澄ませると、何か声が聞こえてくる。
『……25、26……うん。一人多くなってる』
杜島さんはドアを閉め、こちらに向き直った。
『よくわかりました。確かに、逃げ込んだ人が一人多くなっています。はぁ』
彼女は気だるげそうに肩をすくめる。かなりのオーバーリアクションだが、妙に似合っているのはなぜだろう。
「やっぱり、この教室が関係してるのか? 中、見てもいいか」
彼女は少し考えこんだ。そういえば、最初に会った(?)時には俺を止めようとしていた。『引き込まれる』だったか。もしかして、人を引きずり込むよう教室なのか?
『……うん、大丈夫。ただし、私の手を握っていてください』
彼女は俺に手を差し出した。俺はその手を軽く握る。
……そういえば、家族以外の異性の手を握るなんて何気に初めてだぞ。シチュエーションがシチュエーションだけど、そう考えると緊張する。
俺は緊張を悟られないよう、適当な質問を投げかけた。
「そ、そういえば。幽霊ってなんでもすり抜けるの? 手はすり抜けてたけど……」
『触るものを、意識的でも無意識的にでも選べるんです。だけど飛べるわけじゃないから、床に触りたくない、って思ったらすぐ落ちちゃいますが。幽霊も楽じゃありませんね。それじゃあ、開けます——気を付けて」
彼女はがらりとドアを開けた。同時に俺は前に出て、クラスの中を覗き込む。
その先は、ただの教室だった。日誌の通りに西日が差し込み、外から隔絶されているような感じがする。
だが、そこには日誌とは違い多くの人がいた。正確な数はわからないけれど、二十人以上いるのは間違いない。
彼らは、”普通の学校生活”を送っているように見えた。グループを作って談笑したり、一緒に難しい問題を解いたり、周りをあまり気にせずに本を読んでいたり。何の異常もない、むしろ幸せそうにも見える。
——羨ましい。
そんな言葉が、のどの奥から発されそうになった。すると堰を切ったように、感情があふれてくる。まるで心の奥にあった感情の糸を、一気に手繰り寄せられたように。
あの人たちと一緒に話したい仲間に加わりたい混ざりたい過ごしたい言葉を交わしたい友達になりたい学校生活を送りたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい——
俺の体が、足が、心が、教室の方へと動いていく。そうだ、このまま……
俺は急に、腕を引かれた。誰だ、教室に入るのを、逃げるのを邪魔する奴は——
『しっかりしてください、那久良君。だから気を付けてくださいと言ったのに……』
——杜島さんの声がした。徐々に、意識がはっきりしてくる。
『だから、最初に入るのを止めたんです。もしそうしていたら、私の警告を聞かないままに入ったら、一瞬で取り込まれてたでしょう』
「はい。ありがとうございました」
俺にはもはや、感謝を伝えることしかできなかった。つまり彼女は、俺の命の恩人なわけだ。
「ところで、あれが逃避部屋なのか? なんだかこう……」
楽しそうだった。みんな悩みなんてなさそうで、気楽そうで。高校生なんていつも将来への不安が隠しきれていないのに。
「失踪した人は忘れられて、どこにも禍根は残らない。いっそこのまま放っておいても……」
『……そう見えるんですか。でも、そんなことは言わないでください。あの部屋は、そんないいものじゃないどころじゃありません。あの部屋にいるみんなは』
杜島さんは一度言葉を切る。一度自分の中でかみ砕いて飲み込み、食べやすくしてから食事を与える親鳥のように。
『あそこにいるみんなの、ほとんどには意識がありません。……死んでいるのと、まったく同じです』
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