虚血性
3000世
第1話 先生の手
あたしの目は、耳は、ふたつしかありません。
世界中に溢れる悲しみが、声が、ぜんぶ見えなくて、聞こえません。
見せないでください。聞こえなくていいです。
あたしの小さな手では、何もかもすり抜けて、誰も抱きしめられない。
だから、誰かあたしを抱きしめてください。
────7月14日
晴れ 3年1組 柳楽花霞
野球のボールが飛んできた。
為す術もなく、思いっきり頭に当たった。
バランスを崩して転んだ。
いたい、いたい、はずかしい
みんなの黒い穴みたいな目があたしに一斉に刺さる。
急いでボールを拾って来た方向に投げた。
ありがとうって聞こえた気がした。
英語のテストが返ってきた。
先生に渡される時、なんにも言われなかった。みんな一言貰ってたのに。
平均点は62。
あたしの点数は33点だった。
ゾロ目だ、らっきー
再テストだって。
今日はとても暑い日でした。
それなのにあたしは冬用のセーラー服を着てきちゃった。
汗も吸い取ってくれないし、重い。
あつくて、あつくて、死んじゃうかと思った。
────
「ふぅん、大変な一日だったね」
放課後の空き教室。
週に二回のカウンセリング。
せんせいは、あたしの変な日記を読んで、呆れたように言った。
「うん、そうなの」
くふふって不器用に笑った。うそ、笑えてないかも!
せんせいは、日記を閉じて、机に置いた。
それから頬杖をついて尋ねる。
「楽しかった?今日」
「うん、たのしかったよ」
先生は目をぱちくりさせて正気?とでも言いたげな変な顔をした。
お口におててを当てて考えるポーズをとる。
しばらく沈黙が続いた後、やっとせんせいが口を開いた。
「…そう、よかったね」
「…うん!」
あんだけ考えておいてそれだけ!?
先生のコミュ障!!
せんせいはあたしがそんなこと考えているとはつゆしらず、すました顔で日記を眺めている。
…うーん、なんであたし、ここにいるんだろ。はやく帰ってねたいのに
「ねぇ、せんせい?あたし、どうしてカウンセリングしてるの?」
せんせいは呆れたようにため息をついて、あたしのおくちにゆびをあてた。
「だーから、君にはカウンセリングが必要なの。こんなぼろぼろになって、何言ってんの」
低い声で静かに言った。
呆れた様な、でも、どこか優しい声。
時々、その声に耳を奪われて、溶けちゃいそうになる。変なの。
「…ふぅん、よくわかんない」
「…まぁ、いいよ、分かんなくて」
せんせーのしわしわのワイシャツ、くたびれたネクタイ、おめめの下のくま。
せんせいの方がぼろぼろよ。
…あなたがカウンセリング受けた方がいいんじゃないの?
「…それで?今日のカウンセリングはなにするの?」
「何するも何も、いつもみたいにお話」
「いつものー?つまんないー」
「そう言うなよ、私だって仕事なんだから」
また、いつものつまんないお話が始まった。
最近の悲しかったこととか、家族についてとか、体調はどうなのかとか。
いつも同じような質問と返答なの。
あたしはだんだん眠くなってきて短い返事で曖昧に答えていた。
「花霞、ちゃんと答えてよ」
そう呆れたように吐き捨てて、胸ポケットからボールペンを取りだして紙になにやら書き始めた。
「あー、なにかいてるの?」
「さぁね?ひみつ」
何をかいているのか見ようとしたけど全然わかんなかった。汚いのよ、先生の字。
「ふぅん、ねぇ、せんせー、あたしのおはなしはいいからせんせいのおはなしして!」
「はぁー?やですー」
「だってあたし、せんせいのことなにも知らない」
あたしの言葉を聞いて先生は少しだけ目を細めた。持っていたボールペンをかちゃかちゃ鳴らす。
「知らなくていいの、俺の事なんて」
冷たく言った。
長い前髪から目が覗いた。
黒い、空っぽの穴みたいな目が、あたしの目を奪う。こわい、こわい。
初めて、その目を見た。
「…ふぅん、いーよぉだ」
きい、と椅子の軋む音がした。
くるくる回って、滑る、特別な椅子。
しばらく沈黙が続いた。
せんせいは唇をぐぅ、と噛んであたしを見つめている。さっきの怖い目で。
こわいの、その目。
そんな目で、あたしを見ないで。
「せんせっ」
思わず、せんせいの目を手で覆った。
きっと、手汗がせんせいの睫毛についた。
「ちょっと、花霞、なにしてんの」
あたしの頬をすっぽり覆い隠せるような、ゴツゴツした、大きなせんせいの手があたしの手に巻きついた。
ぺたぺたした手をカサついた手が吸収する。
せんせの目が隙間から覗いた。
まだこわい目。
冬服のセーラー服が身体に張り付く。
思わず手の力を強める。
「せんせーのその目、やだ、やめて」
声は震えていた。
また手がぺたぺたして、せんせーの手を湿らせた。
でも、ごめんねせんせい、そんなの気にしてられないの。
今はただ、せんせが怖い。
「…はぁ?なんでさ」
せんせいは困ったような様子でこちらを伺う。手に力が入ってぐい、と剥がされた。
今度はいつもの、優しい目。
少しずつ、どきどきがなくなっていく。
汗が瞼に落ちる。
きっと変な顔をしていたと思う。
せんせ、いつものせんせい、よかった、
「…花霞?」
ふいにおでこが体温で包まれた。
あたしの手に巻きついていた、せんせいの手がいつの間にかがおでこに触れていた。
なんでそんな事するのかはわかんない。
「熱…はないけど、調子悪い?」
なにかと思ったら、せんせいはあたしの頭がおかしくなったと思ってるみたい。
たしかに、あたし、変なことしちゃった。
「ない、だいじょぶ」
「…そう、良かった」
ゆっくりと大きな手を離す。
せんせいは目を伏せてなにか考え込んでいる。伸ばしっぱなしの髪が揺れる。
ボールペンの音が鳴る。
「もう終わりにしよっか、今日は」
せんせいが優しい声で言った。
窓に目を向けると空がオレンジ色に輝いていた。せんせいの名札が同じように光る。
もう一日はおしまい。
「…はぁい」
小さく呟いて椅子を引いた。
重いスカートを椅子に引っ掛けた。
せんせも気怠げに立ち上がってついてくる
軋むドアを開けてくれた。
教科書がつまった、すっごく重いあたしのバックも軽々しく持ってくれた。
せんせいは優しい目をあたしに向けてゆっくり歩き出す。
「送ってくよ、校門までだけど」
「えー、くるまだしてくれないのー?」
「いいけど、金取るよ?」
「じゃぁいいですー」
くすっと目を細めて笑った。
せんせは目が良くないのか、よく目を細める。あたし、その目は結構好き。
校門まで、ゆっくり歩いた。
今日はやけに体が重くて、のろのろ歩いた。
せんせいも歩幅をあたしに合わせてくれた。
伸びた二つの影が揺れている。
重たいバックを受け取って、校門をくぐる。
「せんせ、ばいばーい」
「さようなら、また来週ね」
あたしはせんせいが見えなくなるまでずっと手を振った。夕焼けが眩しくてせんせいみたいに目を細めた。
いつもの通学路を歩いてく。
くすんだカーブミラーにあたしが映って、カラスの黒い影があたしの影に重なった気がした。
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