第15章 太陽が沈みました

 文也が自分を裏切った──

 それは、ユウジにとって、思考が止まるほどの衝撃だった。


 自分の知力を総動員して必死に稼いだ29億が消えた……という事実も辛かったが、それ以上に、信じきっていた文也に、裏切られたということが、何よりもユウジを苦しめた。


 文也の温もり、笑顔、まぶしそうな表情──

 そのすべてに……詐欺師である俺が、まんまと乗せられ、騙された。

 食いしばった唇に血が滲む。ユウジは手放しで人を信じた、自分の愚かさを心から悔やみ、そして責めた。


「……やっぱり、ミナのことがきっかけか?」


 ミナの一件は、最初から俺の策略だったと気づいたのかもしれない。

 ミナの首を切ったその翌日──。ジャストサイズの制服を着た派遣社員が、受付に座っているのを見た時の、文也の視線はキツかった。


「あいつは、わかっていながら、何も言わなかった。ずっと俺を恨んでいたのかもしれない……」


 ユウジの頭には、以前、『創智未来産業コーポレーション』を訪れた、ガラの悪い金髪男の顔が浮かんだ。

 かつて、文也のオレオレ詐欺仲間だったというあの男──。

 あいつが文也をそそのかして、金を奪った可能性もある。

 詐欺のプロなら、暗号資産の転送ルートを消すなんて、たやすいだろう。


 ユウジはタクシーで、ミナの住むマンションに向かった。


 そこに文也たちが、まだいるとは思えない。

 だが、文也の行き先の手がかりが、見つかるかもしれないと考えた。


「おそらく、ミナと一緒に逃げてるに違いない」


 今から、彼らの家に行っても無駄足になる可能性は高いだろう。

 だが、何もせずにはいられなかった。鍵屋を呼んで、無理やりこじ開けてでも、部屋に入るつもりだった。


 ユウジは、一度、車で二人を送った記憶を頼りに、高円寺にあるミナのマンションにたどり着いた。

 いるわけがないと思いながら、一応、ミナの部屋の玄関チャイムを押してみた。

 すると、間もなくドアが開き、ミナの驚いた表情が現れた。


「えっ……ユウジさん?」


 玄関に立ったミナは、ノーメイクで部屋着姿だった。シャワーを浴びたばかりなのか、その髪は濡れていた。

 ユウジは、想定外のことに戸惑ったが、ミナを押しのけて、玄関を上がった。

 2LDKの部屋を見回った。だが、誰もいない。


 ユウジはミナの方に向き直り、怒鳴るように言った。


「……あんた、まさか。今日は、文也と一緒だったんじゃないのか?

 ヤツの仲間は、どこだ?」


「ええっ? 何言ってるの?」


 困惑──。戸惑いに満ち、眉を吊り上げたミナの表情。演技ではなかった。

 そして、彼女はユウジの突然の訪問と、いきなりの怒声に腹を立てている。


 ユウジは混乱した。

 ミナと共謀ではない——それじゃあ、文也はどこに消えた?



 ユウジはダイニングテーブルに座り、ミナが淹れてくれたコーヒーを飲んだ。


 テーブルの向かいには、ミナが座り、両肘をついて顎を乗せている。

 普段と異なるユウジのただならぬ様子を、今は怒りを収めたミナが、怪訝そうな表情でのぞき込んでいる。


 まずは落ち着こう。順番に考えよう……と、ユウジは自分を戒めた。


「文也と今朝から連絡が取れないんだ。あさって出発するのに、最後の手続きができなくて、困ってる」


 平静を装ったつもりだったが、声がかすれ、コーヒーカップを持った手が震える。

 それを見たミナの眉が、また吊り上がった。

 ユウジはとりあえず、金が消えたことは伏せた。


 ミナが何をどこまで知っているのか、わからない──。

 状況が掴めるまで、何も言わないほうがいい。


「あの……さ。

 ユウジさんには内緒……って言われたんだけど。

 あさってのLA行き、実は私も誘われてたの。

 だけど、今日はふみちゃんにずっと連絡つかなくて……」


 ミナの話で、ユウジは初めて部屋の中が、殺風景なことに気づいた。

 そして、部屋の隅には、青とピンクの大きな旅行鞄が二つ……。


 やっぱり文也は、ミナと行動を共にするつもりだったんだ。

 だけど、ミナにも連絡がつかないと言うのは、それはいったい──?


「LINEも既読がつかない。絶対変だよ」


 ミナは、以前体験したという怖い話を、ユウジに語った。

 

「ふみちゃん、ずっと前に、誰かにつけられてる気がするって言ってたでしょ?

 実は私もなんだ」


「……誰に?」


「わかんない。でも、数日前に、後ろから腕つかまれたの。声もかけられずに、いきなり……振りほどいたけど、本気で襲われそうだった」


 その話を聞いた瞬間、ユウジの脳裏で別の可能性が浮かんだ。。


 ……まさか、文也は、誰かに——?


 文也が、誰かに目をつけられていた可能性はある。

 ネットショップ詐欺の件で、怒り心頭の中国人マフィア?  

 あるいは、今回の投資詐欺を疑った、ヤクザまがいの会社のどれか?   

 それとも、文也がオレオレ詐欺に関わっていた時代の、組織の連中?


 あまりにも可能性が多すぎて、ユウジの思考は渦を巻いた。


 投資詐欺では、ユウジはメガネをかけ口髭をつけて、素顔を隠して活動してきた。

 以前、SNSで顔を晒されたことに懲りて以来、用心深く振る舞ってきた。


 だが文也は——違った。


 彼は素顔を晒して、毎日飛び回っていた。

 自宅に戻る道も、警戒しないで歩いていたに違いない。ネットリテラシーやリスクマネージメントについては、脇が甘いところがあった。


「……まさか、文也は脅されて、俺の金を盗んだのか?」


 ミナの話を聞き、総合的に考えると、その可能性が高かった。

 少なくとも、文也が自分の意思で金を盗んだと考えるよりは、合点がいった。




 翌朝──。

 ユウジはホテルの部屋で眠れぬまま、ソファに深く身を沈めていた。

カーテンの隙間から差し込む朝の光が、薄暗い部屋に舞う埃を照らしていた。

 喉が渇いていたが、何も飲む気になれなかった。

胃が空のまま、絞られているように重く、頭の芯だけが妙に冴えていた。


 さて、これからどうするか──。

 まずはここを出なければ。金がないんだから、いつまでもいられない。


 ユウジの頭の中は、様々な感情と客観的な事実の間で揺れ動き、散らかったまま片付かない。あれこれ、浮かんでは像を結び、次の瞬間に砕け散る。


「明日のシンガポール行きはどうする? チケットはキャンセルだな。

 まずは、文也の居場所と、金の行き先を突き止めねば──」


 途方にくれつつ、ユウジが呟いた時、スマホが震えた。

 ミナからだった。ユウジはすぐに、通話ボタンに指を滑らせた。


《……ユウジさん……》  


 ミナの声はかすれていた。

 ポツリポツリと、今にも消え入りそうに、呼吸が満足にできないような、苦しげな話し方だった。


《……警察から連絡があった。

 文也の……遺体が、伊豆の山中で発見されたって……》


 ユウジはスマホを持った自分の指先が、冷たくなっていくのを感じた。


《文也はパスポート持ってたから、身元がすぐわかったって。

 スマホも、着ていた服も、すべてそのままだったって……。

 だけど──》


 ミナが言い淀んだ。


「だけど?」


《体中に……ひどい傷があったって……。

 拷問を受けたんじゃないかって。警察に、心当たりはないかって聞かれた……》


 電話の向こうから、ミナの嗚咽が聞こえてきた。

 

 いつ電話を切ったのか、ユウジには記憶がない。

 目の前の空間が、ねじれるようにゆがんでいく。

 ユウジは、ソファから崩れるように、ゆっくり床へと沈んでいった。


 耳鳴りがした。

 吐き気がおさまらない。


「……嘘だ……。ありえない……」


 文也が死んだ──。


 ひどい拷問を受けて。

 脳が理解するよりも先に、胸の奥が裂けていた。


「文也は抵抗したのか? だから拷問を受けたんだろう?」


 怒り、恐怖、そして悔恨──。

 何にも形容し難い、生まれて初めての激しい感情が、ユウジを揺さぶっていた。


「なんてバカなんだ!

 さっさと金を渡せば、生きて帰れたのかも知れないのに」


 いつも、兄貴と呼んで自分を慕っていた文也の姿が、繰り返しユウジの頭に蘇った。都度、心臓が絞られるように痛んだ。


「そんな文也を、俺は疑った」


 たとえ一時であっても、文也を疑った──。

 ユウジは、自分自身が許せなかった。


 失った金のことは、もうどうでも良くなっていた。

 ユウジは、ただ、ただ、文也の笑顔がまた見たいと思った。


 考えることに疲れ切ったユウジは、顔を洗おうと洗面所に行った。

 鏡を見ると、自分の頬が濡れていることに初めて気づいた。


 物心がついてから、ユウジにはおよそ泣いた……という記憶はない。

 だが、今、そんな自分の頬に、涙が筋を作っている──。

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