二人目:榎田 夏美 ~苦い記憶の呪縛~ 夏美視点
「——ああ、私の心を奪ったあなたはなんて罪な人なのだろう!」
煌びやかな衣装をまとい、スポットライトを浴び、客席からの視線も受けながら声高らかに歌い上げる。
貧しい女性が高貴な男性と恋に落ちるというストーリーのミュージカル。その一番の盛り上がりを見せていた。あたしが演じるのは主人公の女性で、この後ソロを任されている。ようやく手にした大舞台。練習してきた成果を見せる時がきた。
さあ、ここからが大いに盛り上がる場面だ。息を目一杯吸い、横隔膜を広げる。いざ、呼吸に声をのせようとしたが。
「……っ!」
突然、声が出なくなった。
声の出し方すらよく分からない。
周囲の困惑する顔に焦りが生まれる。
歌わなければ。歌え、演じきれ。
目の前が真っ暗になった。立っていたはずの床がなくなり体が急速に落下していった直後。
汗だくで自室のベッドで目を覚ました。
目覚めが悪すぎる。よりによって封じ込めていた過去をなぞるような夢を見るなんて。昨日は明け方までバイトをして夕方まで寝てしまったせいだろうか。沈んだ気持ちを晴らすため、行きつけの居酒屋に飲みに向かった。
あれは夢ではなく、現実に起きたこと。あたしは晴れ舞台で失敗して演劇の道をはずれた。バイトを転々とし、気分が落ち込んだ日は酒の力を借りる。
「いらっしゃい、夏美ちゃん。いつものでいい?」
なじみになった居酒屋の店主はあたしの好みを既に熟知している。
いつもと違うのは、居酒屋がいつも以上に人であふれていることだった。
「ごめんね。常連のタカさんの退職祝いでどんちゃん騒ぎなんだよ」
騒ぎの中心にいるタカさんとも、馴染みの客どうし仲は良い。すでに出来上がっている様子のタカさんはあたしを見るなり、声をかけてきた。
「夏美ちゃーん、聞いたよォ。昔ミュージカルやってたんだってェ?」
「な、なんでそれを?」
「あそこのきれいな女の子が教えてくれたんだよォ」
タカさんが指さす方を見て、思わず「げっ」という声が出た。盛り上がる居酒屋の端の席で、ひとり静かに酒を飲んでいる女性と目が合った。
「みずくさいじゃないかァ。今日は俺の退職祝いなんだ、一曲歌ってくれよ」
この居酒屋にはなぜかカラオケが備わっている。いつも常連達がマイクを回して楽しそうに歌っていたのだが、あたしは苦手だといってのらりくらりかわしていた。
「ミュージカル俳優さんだったの?」
「歌うまいんでしょう?」
「聞きたい、聞きたい!」
居酒屋にいる全員の目があたしを見ている。あたしの歌を期待するように、まっすぐに。
寒気がした。あの時と同じ光景だ。ソロを歌うあたしを見る観客の期待のこもった眼差し。失敗は許されない場面で、あたしは失敗した。観客も、ソロを任せてくれた仲間も、失望させた。二度と人前で歌わないと誓ったのに。
「いや、あたしは……昔のことなので今はもう」
そう言って店を後にしようとした。けれど、目の前に七星が立ち塞がった。
「いつまでそうやって逃げるつもり?」
「あなたに何が分かるの?」
あなたは若くして超有名劇団のトップにまで躍り出た人、あたしが感じた屈辱も失望も分かるはずがない。でも、七星はその場を動くことはなかった。
「分かるさ。私も何度も失敗をしてきた。歌詞をとばしたり立ち位置を間違えたり、他にも怒られるような失敗をたくさんしてきた。それでも舞台に立ち続けたのは、失敗したからこそ二度も同じ過ちを繰り返すものかと思ってきたから。たくさん失敗してきた人は、それを糧により良いものを生み出せる。君もそうだ。取り返しのつく失敗ならば、それに体を預けてもう一度舞台に立ってみれば良い」
「でも、また歌えなかったら」
「歌えるはずさ。君は当時、過度のプレッシャーと多すぎる練習量で声が出なくなってしまったんじゃないかな。私もそんな経験がある。初めて任された大仕事に、気負いすぎてしまったんだね」
あの時、あたしは確かに初めての主役に気合いが入りすぎていた。失敗は許されないとたくさん練習して、自分にプレッシャーをかけ続けて。失敗を恐れすぎて失敗してしまった。そして今、また失敗してしまうことを恐れて、歌えずにいる。
「失敗したならまたやり直せば良い。演技はそうやって深みが増す。失敗を恐れて塞ぎ込んでしまっては、せっかくの君の才能が無駄になってしまう」
「あたしの才能?」
「そう。誰よりも責任を持って役を演じ切るという才能。その真摯な姿勢は時に自分を苦しめるかもしれないが、失敗を乗り越えた時、君が演じる役は輝きを放つ。君に必要なのは、失敗を恐れずに一歩踏み出すことだ。大丈夫。失敗を知った君にだからこそ演じられるものがあるはずだ。あの時最後まで演じられなかった役にもう一度向き合えば、きっとあの日より素晴らしい演技ができるはず。聞かせてほしい。今の君の歌を。見せてほしい。今の君が演じられる役を」
失敗を知ったあたしにしか歌えない歌、演じられない役。失敗したことで他人の目をずっと気にしていたけれど、そうじゃなかった。本当に気にすべきはあたしが演じている役だ。失敗したままでは、あたしが演じたあの主人公が可哀想だ。最後まで彼女の心情を歌いきれていない。あたしはなんて無責任だったのだろう。
すると、一度は聞いたことのある曲のイントロが流れてきた。『オペラ座の怪人』。七星がカラオケで流したものらしい。タカさんをはじめ、まわりの人たちが囃し立てるように拍手をしたりヤジを飛ばしたりしている。
「歌え、私の音楽の天使」
マイクを持った七星が、もう片方のマイクを手渡しながらあたしに声をかけた。
最後まで歌ってあげよう。最後まで演じてあげよう。大丈夫。あたしは歌える。だってもう二度と同じ失敗はしない。今度は役を最後まできちんと演じられる。
息を吸い、横隔膜に空気を入れて、声をマイクにぶつけた。
あたしの口から飛び出した最初の一音を聞いた七星の、勝ち誇ったような顔は忘れない。
『オペラ座の怪人』を七星と歌ったあと、あたしは劇団トゥルナンに入団することに決めたのだった。それが、あの日あたしが最後まで演じきれずに置き去りにしてきたあの主人公への、罪滅ぼしでもある。
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