第20話ー人生の運

【失った6年間】


美香は、自分のなかの深いところに沈んでいる記憶を、ゆっくりと手繰り寄せていた。


それはまるで、濁った湖底に積もった泥を、指先で掘り返すような作業だった。


人生で最も忌まわしい時間。

そう問われれば、即座に答えられる。——中学と高校の、あの六年間。


本来ならば、誰もが笑い声を重ね、友情を刻み、恋の切なさに揺れる季節。

だが、美香にとってそれは、**「檻」**でしかなかった。


それは個人的な不運だったのか?

自分に非があったのか?


長いあいだ、そう思い込んでいた。


底辺高校にしか進めなかったのは、努力が足りなかったから。

——そうやって、すべてを自責に変えてきた。


だが、NYに来てから、美香は初めて**「構造」というものを学んだ。**


1980年代。

管理教育という名の下に、制服の丈、髪の長さ、声の大きさ、視線の方向までも統制されていた日本。


そのなかでも名古屋は、突出して厳格だったことを、後に知った。

個性は「問題」とされ、異議を唱える者は「指導対象」となった。


——つまり、あの頃の自分は、抑圧の只中に放り込まれたひとりの子どもに過ぎなかったのだ。


もしも、あの六年間が、違う時代だったなら。

もし、違う都市で育っていたなら。

そして、もし、自由を学ぶ教育のもとにいたなら。

今の私は、まったく別の人生を歩んでいたのではないか——。


そう思うたび、美香の胸には、妄想と呼ぶにはあまりにも切実な、もうひとつの可能性が疼いた。


その痛みは、過去の傷ではなかった。


今を生きる自分が、過去と和解するための、最初の問いかけだった。


美香は、あの六年に奪われたものを、ひとつずつ言葉に変えていこうと決めた。


それが、自分の人生を「取り戻す」ということなのだと、ようやく理解し始めていた。


【描けなかった絵、綴られた記憶】


NYの風は、今もどこか不規則で、街角の匂いも雑多だった。だが、それが美香には心地よくなっていた。


あの街にいた頃の、粘土のように濁った空気と比べれば、ここの混沌は自由の証に思えた。


久しぶりに、キャンバスの前に立ってみた。


鉛筆をとり、線を引こうとした。だが、すぐに手が止まった。


あの頃のようには描けない。

かつてのような純粋な情熱は、どこかに置き去りになっていた。


中学の美術室、準備室、そして、あの人の目。

絵を描くたびに疼く記憶が、美香の指先を鈍らせていた。


数年の空白が、感覚の奥を鈍らせ、そして、何より、自分がもう**「突出した者ではない」**という確信が、静かにそこにあった。


その代わりに——

ノートを開くと、言葉が溢れた。

止めどなく、静かに、堰を切ったように。

自分が過ごした、あの六年間。


名古屋という土地。

日本という国が、管理教育に狂い、子どもたちを型にはめていたあの時代。

自分が体験した理不尽は、個人的な悲劇ではない。

構造の暴力だった。

それを、どうしても誰かに伝えたかった。


あの頃の自分のように、声を奪われた誰かの代わりに。

描けなくなった絵のかわりに、美香の内側には、綴るべき物語が眠っていた。


美香はふと、子どもの頃のことを思い出した。

弟に障害があるということで、家庭は常に緊張していた。

注目はすべて弟に向かい、自分は「我慢するほう」として育った。

ずっと不運だと思っていた。


だが——

もしあの頃の閉ざされた家庭でなければ、もしあの抑圧の中学・高校時代がなければ、

今、自分がこの異国の地で言葉を紡ぐこともなかったかもしれない。


「人生の運は、きっとどこかで帳尻が合う。」


誰かがそう言っていた。


信じるにはあまりにも苦い時間を過ごしてきたが、いまなら、少しだけ頷ける気がした。


絵筆を置いたその場所に、美香はペンを置いた。

これは敗北ではなかった。


絵から言葉へ——

表現が形を変えただけだった。

そして今、彼女は幸せだった。


そう思える瞬間が、過去すべてを昇華していくのだと、ようやく知った。


窓の外では、ニューヨークの風がビルの谷間を抜けていく。

喧騒の向こうに、かすかに春の匂いがした。

美香はペンを握りなおした。


今度こそ、自分の言葉で、自分の輪郭を描いていくために。

遠い国の、あの教室の沈黙に――

小さな声が、ようやく届こうとしていた。


【完】

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