第19話ー開放

【騒がしい自由】


NY——その名に夢と光を詰め込んで渡ったはずだったが、最初の一ヶ月は、ただの混沌だった。


マンハッタンの交差点は、歩行者も車も、信号という概念すら忘れているようだった。


郵便局の窓口では、書類をめぐる押し問答に職員と客が声を荒げ、後ろに並ぶ十数人の存在などどこ吹く風だった。


語学学校でもそうだった。


英語も覚束ない生徒たちが、授業中に平然と手を挙げては、関係のない質問や自分語りを始める。講師はそれに苛立つこともなく、じっと耳を傾けていた。


「他人に迷惑をかけてはいけない」

「空気を読むこと」

「輪を乱さないこと」


——そんな日本で刷り込まれてきたルールは、ここでは通用しないどころか、誰にも求められていなかった。


最初は戸惑いばかりだった。けれど、ふと気づく。彼らは「人に気を遣わない」のではない。


「自分の意見をはっきり言ってもいい」という前提があるのだ。


誰かの正しさが、別の誰かの間違いを意味しない世界。


それは不躾でありながら、どこか清々しかった。


何よりも美香を驚かせたのは、語学学校の授業中、先生が彼女の書いたエッセイに向かってこう言ったときだった。


「Your phrasing is beautiful. You think like a painter.」


そのとき美香の手元にあったのは、本来のテーマからやや逸れていた一篇だった。


けれども彼女は、あえて自分の心に浮かんだ記憶を、そのまま文章にして提出していた。


日本であれば、「テーマと違う」と真っ先に減点されるような内容だ。


だがアメリカでは、ズレよりも中身の魅力が優先された。美香には、それが少し信じられなかった。


日本では、まず欠点を指摘される。

アメリカでは、何か光るものがあれば、それを真っ先に拾い上げて褒めてくれる。


たったそれだけのことが、こんなにも嬉しく、心を軽くするなんて――美香はその日、教室を出たあともしばらく胸の奥がじんわりと熱くなっていた。


美香は、胸の奥に長いこと押し込められていた感情が、そっとほどけていくのを感じていた。


この街は騒がしい。無秩序で、喧しくて、自己主張ばかりで、疲れることもある。


けれどこの騒がしさは、静かに壊れていくよりも、ずっと生きている気がする。


美香は、通りすがりのカフェの窓辺に映った自分に、そっと目を細めた。


この騒がしい街で、ようやく自分の声が聞こえてきた気がした。


【沈黙の果てに】


NYの空は、どこまでも滲んだような灰色だった。


午後の語学学校から帰宅すると、留守番電話のランプが点滅していた。


ボタンを押すと、懐かしい名古屋の友人、真理の声が流れ出した。


「諏訪男、……ついに新聞に載ったって」


電話口の向こう、真理はどこか浮き立つような口調だった。


——複数の女生徒が、長年にわたり被害を受けていたこと。

——保護者たちが学校や教育委員会に訴えても、まともに取り合われなかったこと。

——最終手段として、新聞社に告発し、記者がようやく動き出したこと。

——そしてついに、その名が、新聞の社会面に活字として刻まれたのだと。


「美術教師・長野諏訪男、女生徒への猥褻まがいの“指導”を繰り返す——」


受話器越しにその名前を聞いた瞬間、美香の心臓が、何かに殴られたように跳ねた。


あの窓のない準備室の閉ざされた空気。


午後の光が揺れる、黄ばんだカーテンの向こうの匂い。

そして、あの指——。

忘れたはずの記憶が、泡立つように脳裏で弾ける。


遠いはずの過去が、まるで昨日のことのように、今ここで美香の身体に重なってきた。


——彼が裁かれた。それだけのことなのに、美香は自分の中の何かがほどけていくのを感じた。


赦されたわけではない。ただ、もう誰も、あの教室で泣かされることはない。それが、確かな「救い」に思えた。


だが、同時に、胸の奥に沈殿するような怒りがあった。なぜ、誰もあのとき彼を止めなかったのか。


生徒も、保護者も、教師も、PTAも、教育委員会も、誰も——見ていないふりをしていた。


美香が、必死に言葉を飲み込んでいたあの季節、誰も味方にはならなかった。


報道という最後の祈り。それだけが日本社会の静寂を破った。


それはまるで、張りつめた水面に投げられた一石のようだった。


だが、あまりにも遅すぎた。


事なかれ主義。

身内びいき。

沈黙による加担。


それは加害者一人の罪ではない。


構造そのものが、見て見ぬふりをしたのだ。日本社会は、真実に耳をふさぎ、被害者の声を「空気を読まないもの」として捨てていく。


NYの空を見上げながら、美香は、もう二度と日本に帰るまいと心に決めた。


自分があの国の「正しさ」からこぼれ落ちた者であるならば、ここから、世界を見つめてやる。沈黙ではなく、言葉で。


羞恥ではなく、創作で。


その夜、美香は、静かにノートを開いた。震える指先で、最初の一行を書きはじめた。——私は沈黙を破るために、生きていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る