第18話ー自由へ
【卒業まで、あと……】
美香へのいじめ騒動は、表面的には一応の解決を見た。しかし、それ以降、教室の空気は明らかに変わっていた。
あの日、美香が複数の「捕食者」に嬲られるのを、見て見ぬふりをしていたクラスメイトたち。
彼女たちの態度は、どこかよそよそしく、妙な違和感に満ちていた。美香に対しては、まるで腫れ物に触れるような接し方をし、目を合わせれば怯えたように逸らす。
(美香に手を出したら、きっと告げ口される)
──そんな打算が透けて見えた。
美香は、その空気を一瞬で嗅ぎ取った。
そして彼女は、そんな弱者たちを軽蔑した。
黙っていたくせに、いざとなれば保身しか考えない卑怯者たち。
常に群れて、誰かの顔色を窺い、強いものには媚びを売り、弱いものを見捨てる──そんな「弱者連合」とは、関わらないと美香は決めた。
正しさは、いつだって孤立を生む。
それでも、美香はその正しさを手放さなかった。
それから卒業まで、美香は一人だった。
自ら孤立を選んだ。周囲が固まって動く中、美香はいつも一人、孤高の獣のように教室の隅にいた。群れの保護に甘えることなく、自分の足で立ち続けた。
だが、またしても標的になった。今度は、別の不良が美香に目をつけた。孤立している人間は、いつだって狙われる。
だが美香は、もう怯えなかった。**こんなクズに屈するくらいなら、いっそ死んだほうがマシ。**そう思った。
死ぬ覚悟で、刺し違えるつもりで立ち向かった。その目には怯えも逃げもなかった。真正面から不良を睨みつけ、拳を握りしめていた。
──不良は、何も言わずに引いた。
中学時代の自分では、決してできなかったことだった。
戦わずに耐え、ただ泣いていた自分とはもう違っていた。
その夜、美香は自室のカレンダーを見つめた。赤ペンを握り、無言で日付をなぞった。
「卒業まで、あと二年と十ヶ月──」
かすれた声で、数を数えるように呟く。
彼女は信じていた。爪を立てて乗り越えた日々の数だけが、未来を切り拓く鋭い刃になる。
鋏のように、すべての過去を切り裂き、新しい自分の輪郭を、いつかはっきりと描いてくれるはずだと──。
【ガラスの国を出る】
四月の風はまだ頬を刺すほど冷たかったが、美香の胸の奥には、微かな熱が灯りはじめていた。
それは、ほんの数週間前までは想像すらしなかった“外”の世界から届いた、一通の手紙によるものだった。
封を切った瞬間、最初に目に飛び込んできた「Dear Mika」の文字に、美香の手はぴたりと止まった。
差出人は、ニューヨークに暮らす叔母だった。幼い頃を最後に会っていなかったが、美香の記憶の中では、華やかで、遠く、あまりにも眩しく、自分とは無縁の別世界の住人のように思えていた人。
その叔母が、手紙の最後にこう綴っていた。
——卒業後、もしよければ、アメリカの大学に行ってみる気はない?
美香は思わず吹き出した。笑いというより、あまりにかけ離れた現実に対する、呆然とした反応だった。
底辺高校に通う自分。
中学では、ブルマ姿で変態教師の前で恥辱のポーズを取らされ、
高校では不良たちに目をつけられ、復讐を果たした代償として、クラスで孤立。
六年間、恥と屈辱を身体に刻み込みながら、ただひたすらに耐えてきた。
そんな自分が──アメリカの大学?
夢というより、冗談。笑ってしまうほど現実味がなかった。
けれど、手紙の続きを読んで、彼女は目を止めた。そこには、自分の知らない世界の言葉が並んでいた。
最初は語学学校からでも大丈夫。アメリカには、日本のようなセンター試験はない。必要なのはTOEFLという英語試験と、自分自身を語るエッセイ。それだけで出願できる。
トップ大学じゃなくていい。努力すれば途中で編入もできる。アメリカは、努力する人を見捨てない文化。
その言葉たちは、美香の中でじわじわと沁み込んでいった。静かに、しかし確かに、根を張るように。
日本で与えられた偏差値、内申点、制服、校則、家の価値観──それらすべてが「できなかった」という烙印だった。
でも、それを無効にする場所があるというのなら。もし、別の世界に、自分という存在を“初期化”できる空間があるのなら──。
放課後の校舎のベンチに座りながら、美香は目の前のグラウンドを見つめていた。
見慣れたアスファルトの景色。その灰色が、ふと、まだ見ぬニューヨークの街路に重なった。
(行きたい……アメリカに)
心の奥底で、誰にも聞かれない声が、小さく呟いた。
自分の身体も、過去も、すべてを否定せず、それでも前へ進むために。
そして彼女は、新しい地図を手に取った。
そこにはもう、「美香はこういう子」と決めつける赤線は引かれていない。
これからは、自分で描ける。描いていいのだ。
NY──そのたった二文字が、まるで別の名前のように、彼女を呼んでいた。
【地獄からの卒業】
待ちに待った高校の卒業式の朝、曇天の空は、六年間に積もった鬱屈をそのまま飲み込んだように、どこまでも重く、沈んでいた。
美果は、その空を睨みつけるようにヘルメットをかぶった。エンジンをかけたバイクが、濁った空気を突き破るように咆哮する。
――セーラー服でバイクに乗る。
それは、美果にとって「儀式」だった。
規律、服従、沈黙……そんな無言の強制に染められた日々への、最後の――そして、唯一の反抗。
思えばあまりにも長すぎた。
あの中学の教室、美術室の準備室、ヤンキー女子に囲まれた廊下、無表情な教師たちの背中。六年分の傷が、今日この日に幕を引こうとしていた。
「この支配からの卒業」なんて、きれいな言葉じゃ足りない。
私にとっては――『この地獄(=管理教育)からの生還』だ。
これは敗者の誇りでも、勝者の勝利でもない。
ただひとつの、“生還者の証明”だった。卒業証書を受け取る瞬間、美果は初めて心の底から息をついた。
ああ、これでもう、あの檻(管理教育)には戻らなくていい。
春風が彼女のスカートの裾を軽く撫でた。その風に、自由の匂いが確かに混じっていた。
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