第12話ー内申書
【内申という名の首輪】
教室の窓の外では、三月の風が薄桃のつぼみを揺らしていた。だが、その柔らかな揺れも、美香の胸に届くことはなかった。
諏訪男の机の上に置かれた、一枚の反省文。書き終えた夜、美香は指の震えを抑えきれず、何度も紙を破りかけては、言葉をひねり出して書いた。
「反省の心がこもっていない」
諏訪男の反応は予想通りだった。彼女はそれを覚悟していた。
けれども、それが彼女にできる、精一杯の「叫び」だったのだ。
諏訪男の口元に浮かんだ微かな笑み。冷たく抉るような声が、彼女の首筋を這った。
「お前はもう内申、下がるからな。高校進学は……厳しいぞ」
その一言が、彼女の視界を真っ暗に染めた。
名古屋の冬が、教室の隅で膨らんでいく。
内申点という名の影が、生徒たちの未来を静かに押し潰していた。
教師の気まぐれなペン先が、生徒の人生を塗り潰す。評価ではなく、服従の証として書かれる数字。
諏訪男は、それを知っていた。いや、それを楽しんでいた。
反省文の余白は、もはや紙ではない。それは、美香の心の余白だった。諏訪男が、好きに塗りつぶすための――。
美香は椅子に座ったまま、指先をぎゅっと握り締めた。自分が今、どこにいるのかさえも分からない。空気が重く、湿り、腐りかけた季節のようだった。
八方塞がりだった。
それこそが、諏訪男の望み。彼女の選択肢を奪い、彼女の「居場所」を自分の掌の中にだけ用意すること。
【補習という名の罠】
反省文が提出できないまま、数日が過ぎた。
月曜の夕方、またしても呼び出された職員室の空気は、前よりも幾分やわらいでいた。
タバコの煙はうすく、諏訪男の声も妙に落ち着いていた。まるで、すべては最初から予定されていたかのような、ぬめりとした穏やかさで。
「……書けないのなら、無理に書かなくてもいい」
不意に諏訪男がそう告げたとき、その声はまるで埃をかぶった楽器が久しぶりに鳴らされたような、乾いた柔らかさを帯びていた。
「その代わり、美術の補習を受けろ。池本には……ちゃんとした“教え”の場が必要だ」
“教え”という響きが、妙に湿って耳の奥に染みた。
まるでそれが彼の本音ではなく、何か別の意図を包んだ薄皮のように感じられて、美香は思わず視線をそらした。
諏訪男は机の引き出しを静かに開け、美香が一学期に提出した鉛筆のデッサンを取り出した。
黄ばんだ紙の上に、陰影を纏ったクロッキーが一枚、そっと広げられた。窓から差す午後の光に、描かれた主題の闇が反射しているようにさえ思えた。
「これは、いい作品だ。陰影の付け方に、きみの眼が出ている。……お前の感性かもしれん」
賞賛の言葉は、ぬめりとした静けさを持って胸に落ちた。声色には、どこか媚びるような甘さと、触れれば噛みついてくる毒とが同居していた。
あの諏訪男が、自分を「認めた」。
その事実だけが、美香の中の何かを揺らした。
母の冷たい沈黙、父の不在、教室での気配のなさ、すべてが透明になっていく。
認められたい──ただその一心が、体の芯にひっそりと巣食っていた飢えを目覚めさせていく。
「放課後……補習を行う。通常の授業と同じように体操着で来い。美術準備室にだ」
言われた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
なぜ補習に体操服なのかという疑念は、確かに浮かんだ。
だが、彼の言う「通常通りの授業」という言葉に、その声は押し黙った。
本当は知っていた。彼の言葉の端にある、説明しきれない湿気のようなものに、心のどこかで警鐘が鳴っていた。
それでも──彼女はうなずいた。
それは、小さな救いの仮面をかぶった、底の見えない罠だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます