第10話ーあの頃の名古屋
【管理された週末】
美香は、まだ無力な中学生だった。
そして彼女の受難は、まるでドミノ倒しのように次々と重なっていく。それは、彼女の家庭環境にあった。
重度の知的障害を抱える弟を持つ美香の両親は、「いつかきっと治るもの」と信じて疑わなかった。
あの時代には、そうした希望的観測が当たり前のように語られていたのだ。
だが、その誤った認識が、いくつもの悲劇を引き起こしていく。
ストレスが限界に達した両親は、些細な意見の違いで何度も衝突した。
「あの病院を変えるべきだ」
「おまえの接し方が悪い」
──そんな言葉が、毎晩のように飛び交っていた。
美香はその言葉の応酬の合間に、ただ息をひそめていた。
割り込む隙間もなければ、存在の証明もない。弟の障害が家族の全てを占め、美香はまるで“誰でもない誰か”になっていた。
土曜日の午後、空は濁った白に曇っていた。
美香はひとり、栄の通りを歩いていた。
ビルのガラスに映る自分の姿を見て、まるで借り物の人間のように感じた。自動販売機の前で立ち止まり、空き缶を見ていたその時だった。
「君、中学生だろ。何してるんだ」
見覚えのない教師に声をかけられた。
巡回担当の教師。理由はただひとつ、「中学生が繁華街にいる」――それだけだった。
確かに、制服姿で街にいる生徒を注意することは理解できるかもしれない。
だが、美香は制服ではなく私服を着ていた。
にもかかわらず、その私服で街にいることまでが“問題”とされたのだ。
あの時代の名古屋、管理教育が厳しかった時代では、それが普通の出来事だった。
生徒は徹底的に管理され、規律の枠を超えることは許されなかった。
服装も行動も、すべてがチェックされ、統制される世界だった。
美香はただ、家の騒音と孤独から逃げたかった。
それだけなのに、社会は彼女をさらに追い詰めた。
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