第9話ー最大の過ち

【あの日の一歩が、すべてを狂わせた】


それは、乾いた春風が校舎を揺らした、ある午後のことだった。


美術の時間が始まってまもなく、美香は、ふと血の気が引くような感覚に襲われた。

――道具箱を、忘れてきた。


あの教室に必要不可欠な、唯一の持ち物。そして、それを忘れた者に科される「罰」は、誰もが知っていた。


椅子の上での正座。皆の前での晒し者。


諏訪男の課すその「公開処刑」は、単なる指導ではなかった。


それは、羞恥と屈辱の見世物であり、クラスの秩序を支える支配の儀式だった。

美香の胸に、激しい動悸が走る。頭の中で警報が鳴り響く。


このままでは、晒される――。


その一心で、美香は、机をそっと離れた。 教室の奥、美術準備室の重い鉄扉の前に立ちすくみ、 震える指先でノックした。


「……先生、あの……道具箱、家に忘れてしまって…… 取りに帰らせていただけませんか」


それは今思えば、あまりにも無謀な願いだった。だが、当時の美香には、それ以外に道が見えなかった。


「だめだ。」


諏訪男の返答は、冷たく、即答だった。今思えば、それは当然の応答だったのかもしれない。


だが、そのときの美香には、その言葉がまるで冷水のように全身を打ちつけた。息を呑む間もなく、諏訪男の口元が、わずかに歪んだ。


それは“笑み”だった――だが、その表情に慈悲や寛容のかけらはなかった。

あれは、獲物の愚かな足取りを見下ろす捕食者の笑み。


美香はまだ知らなかった。この瞬間こそが、人生の転落の第一歩だったことを。


【切り裂かれた自信】


(この小娘、晒し者から逃れようとしたか……)


(忘れ物を取りに帰らせてください?.....この俺の“裁き”から逃げようなどとは恐れ多い.....)


諏訪男の内なる声には、怒りではなく、嘲りと優越がにじんでいた。


その日を境に、彼が美香を見る目は明らかに変わった。それは執拗な監視の視線だった。狩りの標的を定める捕食者のまなざし。


ある日、彼は美香の提出した作品を無言で取り上げると、じっと睨みつけた。教室にざわめきが走る前に、その乾いた声が響いた。


「……これは、夢遊病者の落書きだな。構成も、技術も、ゼロ。こんなものを“良い”と思うなら、一度、自分の目を疑ってみろ。」


教室は、一瞬で凍りついた。


級友たちの反応は様々だった。


人の不幸に快感を覚える者、理由もわからず怯える者。


だが、小学校時代から美香を知る数人は、彼女の絵がうまいことを知っていた。

――なぜ、美香が?


困惑と疑念は教室の空気を微かに揺らしたが、それ以上に強かったのは沈黙だった。


諏訪男を怒らせた「理由」に気づく者はなく、誰一人として、美香が“標的”に選ばれたことを察する者はいなかった。


美香は呆然としていた。自分が信じていた唯一の居場所。幼い頃から、何よりも好きだった絵。


自分の“本当”を描ける手段――それが、言葉ひとつで破壊された。


胸の奥で、何かが崩れる音がした。それは自尊心か、信頼か、それとも自己そのものだったのか。彼女には、もうわからなかった。


だが、ひとつだけ確かなことがあった。諏訪男は、狙っていた。彼女の心の灯をひとつずつ潰していくことを、静かに、確実に、愉しんでいた。


あのとき――

あの日、あの一言。


「忘れ物を取りに帰らせてください」と言わなければ、諏訪男の目に、自分は映らなかったかもしれない。


それは、美香の中学時代における最大の過ちだった。

そして――長く続く悪夢の、始まりでもあった。

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