第8話ー不器用な少女

【不器用な才能─誰にも見えない肖像】


美香は器用な子ではなかった。


勉強も運動も人づきあいも、どれも上手くこなせず、教室のざわめきの中で、どこか常に浮いていた。


周囲との距離感をうまく測れずに戸惑いながら、それでも人一倍、空気の震えや視線の湿度に敏感だった。


繊細で、感受性が強く、感情の起伏は天気のように激しかった。


些細な言葉に傷つき、誰かの仕草ひとつに胸をかき乱される。そんな日々の中で、ただひとつ彼女を支えていたもの――それは絵だった。


鉛筆を握ると、世界が静かになった。


キャンバスの上では、言葉にできない感情も、誰にも伝わらない想いも、すべてがかたちを持って息づきはじめる。


線と色彩だけが、彼女に「生きていていい」と囁いてくれた。絵を描く時間だけが、美香にとって自分を肯定できる唯一の場所だった。


けれど、その才能の陰には、決して誰にも言えぬ家庭の暗がりがあった。


美香には弟がいた。重度の知的障害を抱え、生まれながらにして他人との境界を持たず、世界と交わる術を持たぬまま、日々をただ喚き、暴れ、泣いて過ごしていた。


1980年代の空気の中で、その障害は「心の病気」と呼ばれ、親の愛情や育て方に原因があるとされた。


そんな世間の視線に追い詰められた両親は、弟の世話に奔走し、沈黙と疲労の中で、もう一人の子ども――美香の存在を、忘れていった。


美香は両親に放置されながらも、心の底では何かを強く求めていたのだ。理解されること。認められること。ほんの少しの愛情でも。


気が弱くて、人前で声を張ることもできなかった。けれどその奥には、火のような何かがあった。押し黙った中にも、彼女は不思議と物怖じしなかった。


目をそらさずに見つめ返す強さ。理不尽に頷かない反骨の光。それはきっと、誰にも守ってもらえなかった少女が、自分で身につけた武器だった。


そして――その武器こそが、やがて彼女を試練へと導くことになる。

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