第6話ー誰もが見て見ぬふり
【誰もが見て見ぬふりをする「義務」】
周囲の空気が張り詰める。男子生徒たちの冷笑が起こるたび、諏訪男は一瞬手を止め、潮時と悟ったように不自然に頷く。
そしてまた、新たな『犠牲者』を求めて、次の列へと移動していった。
教員たちは、見ていないふりをしていた。
“彼は美術の教師なのだから、本来関係ない場面だ”誰もが心のどこかでそう思いながら、けれど口には出さなかった。
そこにあるのは、責任の所在をあいまいにした組織の沈黙。
その沈黙こそが、諏訪男の行為をさらに“正当化”し、許容する温床になっていた。
「諏訪男は変態」
生徒たちの間では、そんな軽口が公然と交わされていた。
しかしそんな声さえ、むしろ彼の耳には甘美な賛美と化していた。集団の黙認が欲望に油を注ぐことを、この男は本能で理解していたのだ。
誰も何も言わない。いや、言えなかったのかもしれない。
誰も止めなかったがゆえに完成してしまった、ひとつの“構造的な暴力”だったのだ。
【沈黙の構造】
諏訪男の異常な授業――それを最初に「おかしい」と口にしたのは、ある女生徒の母親だった。
娘が震える声で語った「美術室での出来事」に、彼女は最初、言葉を失ったという。けれども、事実を確かめるべく学校に足を運んだ彼女は、職員室で見たものにさらに打ちのめされた。
教師たちは目をそらし、校長は曖昧な笑みを浮かべながらこう言った。
「……まあ、あの先生は昔からちょっと芸術に熱心すぎるところがありましてね。でも指導の一環ですよ」
そのうち、同じように諏訪男の授業に違和感を抱いた保護者が、次々と名乗りを上げた。
女子生徒の保護者たちは小さな会合を開き、連名で抗議文を提出した。
だが、学校側は動かなかった。
「誤解です」
「過剰な反応かと存じます」
「教育の現場は、外から見て分からない部分もありますから」
PTAは静観を決め込み、教育委員会も「学校の判断を尊重する」と言うだけだった。まるで透明な壁があらゆる声を跳ね返すように、あらゆる通報は無力化された。
当時の学校は、教育という名の「統治機構」だった。
管理主義という名の正義が、上意下達で絶対化され、個人の感情や倫理は「和を乱すもの」として排除された。教師は絶対者であり、生徒は従うもの。保護者ですら「外部」として黙ることを求められた。
学校は密室であった。
教室も、職員室も、教育委員会さえも、同じ屋根の下にある一枚岩の沈黙だった。諏訪男の「異常さ」は、そんな構造の中で、あまりにも自然に、あまりにも長く、放置されていたのだった。
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