第2話ーその男

【その男 ―諏訪男】


1980年代の日本は、高度経済成長を経て活気に満ちていた一方で、学校現場では管理教育が強まり、教師の権力が暴走しやすい環境にあった。


美術教師・諏訪男は、一見すると洗練された男だった。


きっちりとポマードで固めた髪、スーツのシルエット──その隙のない身だしなみには、美術教師らしい「審美眼」が垣間見えた。


だが一歩近づけば、その印象は一変する。


張ったエラに垂れた顎、そして冷たく光る爬虫類のような目——それらが絶妙な不気味さをもって、見る者に異様な圧を与えた。


【公開処刑】


小学校から中学校へと進学したばかりの春。


まだ生乾きのランドセルの記憶が背中に残る、あどけない12〜13歳の子どもたちにとって――その最初の美術の授業は、もはや“教育”ではなかった。


それは、戦慄を伴う通過儀礼。諏訪男による、冷酷な“儀式”だった。


クラス初日。


彼が最初に行うべきは、生徒たちを“絶対服従”の状態に置くことだった。


そのために最も効果的なのは、「恐怖」を植えつけること。


彼はまず、生徒全員に対して“準備不足”という理不尽な罪をでっち上げ、静かに命じた。


「全員机の上に、正座しろ」


誰ひとり逆らえなかった。


少年少女たちは、一人残らず机の上に膝を折り、薄い制服の布越しに冷たい木の感触を受け入れた。


その姿を見下ろしながら、諏訪男は言葉少なに教室をゆっくりと歩く。


無言の支配と見せしめ。彼の眼差しは、無数の視線を一つに束ね、恐怖という名の楔を打ち込んだ。


それは、あらかじめ仕組まれた“見世物”だった。


以降、彼の授業では、忘れ物や筆記ミスという些細な過ちすらも、椅子の上での正座――つまり“公開処刑”の理由とされた。


諏訪男はそれを「指導」と呼んだ。だが、その実態は――羞恥と恐怖を同時に刷り込む、冷酷な演出だった。


椅子の上に正座させられた子に、全員の視線が集まる。頭を垂れ、黙って晒される。

その小さな背中は震え、汗ばんだ制服が肌に貼りつく。


無表情の群衆の中で、ただ黙して座らされるその姿は、もはや“教育”ではない――。

それは、まぎれもない、精神の拷問だった。


美術の授業とは、本来、自由と創造の象徴であるはずだった。


だが、諏訪男の手にかかれば、それは支配と恐怖を注ぎ込む器へとすり替わっていた。

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