第25話
金曜日の昼前。TechFrontierでの定例会議は、予定よりも少し早く終わった。
会議室が和やかな雰囲気に包まれる中、月島さんが近くによってきた。
「湊さん、今日ってこの後空いてますか?」
「あぁ……はい。空いてますよ。どうしました?」
何か個別の相談だろうか。
「や、ランチでもどうかなと」
「ランチ……いいですけど……」
俺がそう答えた瞬間、待ってましたとばかりに、田中さんが会話に割り込んできた。
「お、ランチですか?」
「あ……う、うん。会議室で話しづらいこともあるだろうし、たまにはいいかなって。」
月島さんが顔を引き攣らせながら答える。
田中さんは、近くにいた俺の会社の後輩と、自分の部下を巻き込み、「みんなで行きません!?」と、あっという間に、俺と月島さんのささやかなランチの計画を、6人規模の会食へと変貌させてしまった。
俺と月島さんは、顔を見合わせ、お互いの表情に「あーあ」と書いてあるのを読み取って、小さくため息をついた。
◆
結局、俺たちは、オフィス近くのイタリアンレストランで、大きなテーブルを囲むことになった。月島さんは俺の隣の席に座っている。俺と月島さんの間が男性陣と女性陣の境目。
彼女は、田中さんを中心とした女性陣の、恋バナやファッションに関する、俺には到底理解不能な会話に巻き込まれ、愛想笑いを浮かべている。一方、俺は俺で、自社の後輩とTechFrontierの男性社員との間で交わされる、当たり障りのない仕事の話に、適当な相槌を打つしかできない。
すぐ隣に、彼女がいるのに。その距離は、先日の会社の打ち上げの時よりも、もっと、ずっと遠く感じられた。
俺は、時々、彼女の横顔を盗み見る。彼女もまた、会話の切れ間で、ちらりと俺の方を見ている。目が合う。何か言いたげな、でも、何も言えない、そんな視線が、一瞬だけ交差し、そして、また、それぞれの会話の喧騒の中へと紛れていく。
(……もどかしいな、これ)
俺は、目の前のトマトソースのパスタをフォークでくるくると巻きながら、そんなことを考えていた、その時だった。
俺が、パスタを口に運ぼうとした、まさにその瞬間。フォークの先から、パスタが一筋、つるりと滑り落ちた。そして、放物線を描いたそのパスタは――
ピシャッ。
小さな、しかし、その場の全員の動きを止めるには、十分すぎるほどの音を立てて、隣に座る月島さんの、真っ白なTシャツの胸元に着弾した。
「あ……」
時が止まった。
テーブルの上の空気が、一瞬で凍りつく。田中さんも、ウチの後輩も、全員が息をのみ、俺と、月島さんのTシャツにできた、鮮やかな赤いシミとを、交互に見比べている。
終わった……俺の社会人生命……いくら仲が良いとは言え、同じベッドで寝たとはいえ、相手は取引先の副社長。その人の服を汚すなんて大失態もいいところだ。
俺が、顔面蒼白になりながら、必死に謝罪の言葉を探していると、当の月島さんは、自分の胸元のシミを、きょとんとした顔で眺めた後、俺の顔を見て、静かに、こう言った。
「……コインランドリーならいけるかな?」
その声は、怒りでも、呆れでもなく、ただ純粋な、確認の問いかけだった。まるで、システムに予期せぬエラーが出た時に、「このバグ、修正可能だよね?」と、エンジニアに尋ねるような、そんな口調。
「え、あ、は、はい! すみませんでした……クリーニング代も、Tシャツ代も、もちろん俺が……!」
「ん……や、大丈夫。あ、本当気にしないでください、湊さん。何ならちょっとシミの場所がオシャレだし。こういうロゴみたいじゃん?」
月島さんは自分のTシャツを覗き込みながら冗談を交えて空気を和らげた。
そして、まるで何事もなかったかのように、自分のパスタを食べ始めた。その、あまりにもクールな対応に、凍りついていた周囲の空気は、逆に、どう反応していいか分からない、という、別の種類の気まずさに包まれることになった。
◆
その日の夜。
俺は、罪悪感と、昼間の月島さんの不思議な対応を反芻しながら、いつものコインランドリーへと向かった。
すると、珍しく、彼女が先にいた。そして、洗濯機の前で、一枚の白いTシャツを、難しい顔で眺めている。胸元には、昼間よりも少しだけ薄くなったが、しかし、はっきりと分かる、トマトソースのシミ。
「……月島さん」
俺が声をかけると、彼女は、振り返って、ため息をついた。
「ね、湊さん。案外落ちないや。湊さんのワイシャツは大丈夫?」
彼女は、そのTシャツを俺に見せてくる。まだシミは残っていた。この期に及んで俺の服まで心配してくれなくてもいいのに。
「……ごめんなさい、月島さん……俺のせいで……」
俺が、改めて頭を下げると、彼女は、力なく首を振った。
「湊さんが謝ることじゃないって。あれは、不可抗力。パスタが意思を持ってたんだよ。『シェフの気まぐれ自我芽生えパスタ』だよ。それにしても、シミって面白い現象だよね」
「え? 面白い……?」
「うん。物理的なオブジェクトに対して、意図しないデータが、不可逆的に書き込まれちゃうわけだから。一度書き込まれたら、完全に削除するのは、ほぼ不可能。ログが、永遠に残り続ける」
月島さんの独特な視点に、俺は少しだけ戸惑いながらも、同意した。
「確かに……コーヒーとか醤油とかね……特に白いシャツについた時の絶望感は半端じゃないよね」
「ね。ってかさ、もはや白い服なんて汚れるためにあるようなもんじゃん? 人間もいつかは老けるように、白い服もいつかは汚れちゃうんだよね」
どことなく寂しそうな表情で月島さんはそう言った。言葉とは裏腹にただ雑に使い捨てる服、という感じではなさそうだ。
「ねぇ月島さん。それ……お気に入りだった?」
月島さんは俺から視線を外し、「ん」と言ってコクリと頷いた。
「……やっぱり。そうだったんだ……本当にごめん。弁償するよ。同じTシャツ、買ってくるから」
俺が、心からの罪悪感を込めてそう言うと、月島さんは、ふっと、柔らかく微笑んだ。
「忙しいね、私達。ソファを買ったりTシャツを買ったりさ」
「確かに……」
「けど、私は同じソファは買わなかった。だから、湊さんにも選んで欲しいな」
「服を?」
「ん。別にTシャツじゃなくても、なんでもいいよ。会社に着ていく服は一週間でローテーションを組んでたんだけど欠員が出ることになるから。湊さん達と打ち合わせのある曜日に着ていくつもり」
「そ、それは責任重大だね……」
「ふふっ……でしょ? それと、これは渡しておく」
月島さんはそう言うと器用にシミのついたTシャツを折りたたみ、俺に手渡してきた。
「戒め?」
「ふはっ……違うよ。部屋着……ってか湊さんの部屋に常備しておく用だね」
「……上だけでいいの?」
俺がそう言うと月島さんはにやりと笑う。
「下着も?」
「ズボンだよ! ズ! ボ! ン!」
「ん。確かに」
月島さんはそう言うと洗濯籠から短パンを取り出して俺の洗濯籠に放り込んだ。
「ま、湊さんだから許してるのはあるかもね。他の人だったら今頃スマホをハッキングして性癖をつまびらかにしてるところ」
「社会的に殺そうとしてる!?」
「ふふっ……なんてね。けど……このシミも大事なログ……っていうか思い出。湊さんってタグ付けがされてるから、いい思い出も悪い思い出も大事にしようって思うんだろうね」
月島さんはそう言って椅子に座り、本を開いた。どうやらTシャツと他の洗濯物は分けて回しているらしい。
「ってなわけで、お誘いとスケジュール調整待ってるね」
「はいはい。けど俺より月島さんの方が忙しいだろうし合わせるけど……」
隣りに座りながらそう言う。
「ん……ありがと。じゃ、明日で」
「明日!?」
「ん。明日」
「いいよ。明日ね」
「ん。明日」
月島さんは本を読みながら「毎週服を汚したら湊さんとたくさん出かけられるのか」と呟いた。
「サイコパス診断でありそうだね!?」
「夫の葬儀で出会った夫の同僚に一目惚れした妻は再び会うためにどうした? で、また葬式で会えると思って子供を殺した、みたいなね」
「目的のために手段を選ばなさすぎるよ……」
「ま、それは私達もそうだけどね。いい加減洗濯機くらい買えばいいのに」
「ま……それは確かに。けど、ここには色々な目的があるしね」
「例えば?」
月島さんが俺の方を上目遣いで見ながら尋ねてきた。
「ま……色々は色々」
照れ隠しに顔をそらしながらそう言う。
「ん。色んな色があるね」
「まぁ……色々と。毎週、服を汚さなくてもいいからね」
「ん。じゃあ次回からは理由もなしで誘うよ」
「多分、そういうもんだよ。皆」
「ふぅん……そうなんだ」
月島さんは本を閉じる。そして、俺の腕をツンツンとつついてきた。
「ん? 何?」
月島さんは無言で何度も腕をツンツンとつつく。
「ど……どうした?」
「明日、お出かけしよ? 理由はないけど服を見に行く」
「う、うん……了解」
微笑み、顔を赤くした月島さんの様子に思わずこっちまで顔が熱くなってくるのだった。
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