青い薔薇は、掠れて咲かない
モンテーロバルデスレオ
第一話:掠れた化粧と都会の夜 ―静かに始まる、青い薔薇の物語―
第一話:掠れた化粧と都会の夜 ―静かに始まる、青い薔薇の物語―
夜の帳が落ちると同時に、街の明かりが一斉に灯りはじめる。
東京の片隅、華やかさと陰が交差する歓楽街。その一角にひっそりと佇むキャバレー「ロゼ・ノワール」。真紅のカーテン、金の縁取りが施されたドア、その奥で今日も夜が始まろうとしている。
店の空気は、香水と酒、そしてさまざまな人間の思惑でできている。
春野紅(はるの・こう)は、その世界の中で、誰よりも静かに、しかし確かに立っていた。
大学に通いながらこの店で働く彼は、ボーイという職業をまるで演者のように演じている。
背筋を伸ばし、丁寧な言葉を忘れず、グラスを持つ指先には迷いがない。
だが、今夜の紅の顔には、ごく薄く、しかし確かな「化粧」が施されていた。
淡いベージュのファンデーション。目尻に引かれたごく細いアイライン。唇に乗せられた、ほとんど色のないグロス。
「女の真似事でもしてるつもり?」
「……何あのボーイ、気色悪い」
客の小さな声が、空気を切り裂くように届いてくる。
それでも紅は、顔色一つ変えずに笑顔で応対する。グラスにワインを注ぎ、灰皿を替え、軽く頭を下げてその場を離れた。
けれど、その背中は、まるで雨に濡れた花のように脆く、張り詰めていた。
「紅、ちょっと休憩入りなさい」
声をかけたのは、キャバレーのママ、千草。
細やかで品のある年配の女性で、紅にとってこの世界で数少ない「安心できる人」だ。
「また言われたのね」
紅は、かすかに首を振る。
「慣れてます。……ただ、何で自分でいるだけで、こんなに否定されなきゃいけないのかって、それだけです」
千草は静かにため息をついた。
「自分を信じなさい。信じることは強さよ。だけど――喧嘩は、なるべく避けてね。傷つくのは、あなただから」
紅は小さく笑った。「はい。……でも、傷つくのは慣れてるんです」
そのときだった。
「君、ちょっとこっち来て」
奥の常連席から、低く乾いた声が飛んだ。
テーブルに肘をつき、煙草をくゆらせる男。紅はその男を見て、一瞬だけ足を止めた。
髪は少し長く、シャツの襟元は無造作に開かれている。灰皿には吸い殻が乱雑に並び、グラスには減ったウイスキー。
だが、目だけが妙に鋭く、見るものすべてを剥がしてしまうような光を帯びていた。
「君、名前は?」
「春野紅です」
「紅ね。いい名前だ。ちょっと、一杯どう?」
「……私は、安酒は飲みません」
一瞬、間が空く。だが次の瞬間、男はククッと喉を鳴らして笑った。
「いいじゃないか。そういうの、俺は嫌いじゃない。君、面白いな」
不意にその目が紅の頬に留まり、細いアイラインの先を見つめる。
「男が化粧か……奇妙だな。だけど――咲きたくても咲けない花ってのは、美しいもんだ」
紅は、なぜか言葉を失った。その声はどこか、心の深い場所を震わせる響きを持っていた。
男の名は、蒼井花(あおい・はな)。その夜、初めて交わされた言葉は、まるで小さな火種のように、紅の心の奥に残った。
営業終了後の更衣室。紅は鏡の前で自分の顔をじっと見つめる。
頬の化粧は、汗と涙に似たものに滲み、わずかに掠れていた。
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