机に向かい、積み上げられた書類の山と格闘していた鈴木太郎、享年50歳。中小企業の社長として、彼は日々、資金繰り、人材育成、そして果てなき市場競争に頭を悩ませていた。その日も例外ではなく、深夜まで続く作業で鉛筆を持つ指の感覚は麻痺し、目の奥はジンジンと痛み始めていた。

ふと、視界がぼやける。書類の文字が滲み、蛍光灯の光が歪んで見えた。全身から力が抜け、ドサリ、と鈍い音を立てて太郎の体は机に突っ伏した。意識が遠のく中、脳裏をよぎったのは、やり残した仕事のこと、そして家族の顔だった。彼の人生は、あまりにも唐突に幕を閉じた。

――が、それは終わりではなかった。

次に意識が浮上した時、太郎は真っ暗な空間に浮遊していた。戸惑っていると、目の前に光り輝く存在が現れた。その光は、優しくも荘厳で、太郎の心を一瞬で落ち着かせた。

「鈴木太郎、貴殿は選ばれた」

脳内に直接響くような、性別のない声が聞こえた。

「若き男爵領主が突然の死を迎え、空白となったこの世界で、我々は地球より新たな存在を転生させる実験を行っている。貴殿の経営手腕と、いかなる逆境にも立ち向かう精神力に、我々は興味を抱いた」

実験？思わず思考が停止する太郎に、光は続けた。

「貴殿には、その実験を成功させるためのいくつかの補助を与える。一つは『空間収納』。生物以外ならば、その空間に無限に収納できる。最初は触れたものだけだが、レベルが上がれば収納可能な距離も増すだろう。もう一つは、この世界の言語と文字の知識。これがあれば、意思疎通に困ることはない」

「そして、最後に――あとは、がんばれ」

その言葉を最後に、光は急速に遠ざかっていった。太郎は焦った。聞きたいことは山ほどある。なぜ俺が選ばれた？男爵領主とは？この世界で何をすればいい？しかし、彼の問いに答える者は、もうどこにもいなかった。

意識がさらに遠のき、やがて太郎の体は、温かいベッドに横たわっている感覚に包まれた。目を開けると、そこには見慣れない部屋の天井があった。木製の梁がむき出しになった、質素だがどこか重厚感のある部屋。

ゆっくりと体を起こすと、肌触りの良いリネンに包まれた豪華なベッドだった。カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の隅々までを照らしている。壁際には使い込まれた木製の机と椅子。書棚には見慣れない文字で書かれた本が並んでいる。

「ここが、男爵領…か」

太郎はつぶやいた。声に出してみると、その言葉がすんなりと自分の口から出たことに驚いた。まさしく、授けられたスキル「異世界の言語、文字習得済み」が発動している証拠だった。

自分の両手を見つめる。しわくちゃだったはずの手は、若々しく引き締まっている。そして、記憶にある重い疲労感は消え失せ、体には漲るような活力を感じた。

突然死から転生。しかも、若き男爵領主として。神からの無責任とも取れる「あとはがんばれ」の一言が、彼の背中を押す激励か、あるいは試練の始まりか。しかし、鈴木太郎は、地球で培った経営者としての嗅覚が告げていた。

――これは、チャンスだ。

彼は、この見知らぬ世界で、手に入れた新たな体とスキル、そして経営者としての経験を武器に、新たな人生の幕開けを決意した。