第43話 前夜のひととき

 夕食も終わり、夜がすっかり村を包んでいた。


 俺たちはセレスさんの計らいで用意してくれた小さな空き家にいた。

 もともとは誰かの住居だったらしく、壁に掛けられた花模様の布や窓辺に置かれた素朴な陶器の花瓶にその面影が残っている。


 部屋の中央には丸い木製のテーブルと椅子が二脚。そしてランタンが一つ。

 灯された炎は小さく揺れ、テーブルの上に淡い橙色の影を落としていた。


 外では虫の音が静かに響き、遠くの方から焚き火の薪がはぜるような音がかすかに聞こえてくる。


「……なんだか落ち着くね」


 リナがぽつりとつぶやき、ソファに腰を下ろして足を投げ出す。

 床の隅には丸くなったモカの姿。村の人々にたくさん撫でられて今日は少し疲れたのかもしれない。


 俺は壁際の棚に置いてあったマグカップを手に取り、温かいコーヒーを注ぎながら深く息を吸い込んだ。

 空気はぬるく、どこか甘い。木と土と夜の匂い。


「明日、天気がいいといいな」


 自然とそう呟いた。天気なんてどうにもならないことなのに。

 でも、俺にとってはきっと何より大切な“舞台”になるから。


「ねえ、明日ってどれくらい焼くの?」


 リナがふいに問いかけてきたのは、モカの寝息が静かに聞こえ始めた頃だった。

 俺はマグカップを口に運びながら壁の方を見つめる。


「……まあ、村の人たちが全員来たとしても二、三十人くらいか。多めに見積もって五十個かな。量は抑えて、種類をちょっとずつって感じかな」

「ふふ、なんだか本当にパン屋さんって感じだね」

「実際そうなんだけどな?」


 茶化すように笑ったリナに、肩をすくめて返す。


「ねえ悠介。こっちの世界に来てよかった?」

「!」


 ふいにリナが尋ねたひとことに少しハッとした。

 しかし、俺はすぐに頷いた。


「……うん、そうだな。こっちでの生活は、なんだか違う。昔は“ちゃんとやらなきゃ”っていつも追われてた気がする。でも今は……誰かのために生きてるって感じがする」

「そっか。だから悠介のパンは美味しいのかもね」

「え?」

「そうやって心のこもったパンって、やっぱり味が違うのかなって。気持ちって、不思議と伝わるものだと思うし」

「……そうだといいけどな」


 リナは膝の上に手を置いてじっと俺の方を見た。


「大丈夫。あたし、悠介のパンが好きだよ」


 その一言が、心に静かに染みこんだ。

 すぐに言葉で返すことはできなかったけれど、自然と肩の力が抜けていくのを感じた。


 明日が楽しみだ――そんな気持ちが、少しずつ胸の奥で膨らんでいった。


 夜の風、火の灯りの中にほんの少し冷たさを運んでくる。木々のざわめきと遠くの虫の声が耳に心地いい。

 俺は湯気の立つマグカップを両手で包みながら空を見上げた。


 雲の切れ間に星がぽつりぽつりと瞬いている。


 ――こんな夜を、あの頃の自分は想像できただろうか。


 前の世界で会社にいた頃は、夜はいつも苦痛だった。

 眠れぬ時間が続き、明日が来るのが怖くて。目を閉じれば締め切りやミスの記憶ばかりが浮かんできた。

 心の奥に常に渦巻く不安と焦燥――誰かに認められたいのに何もできていないような無力感。


 あの頃の自分が今の俺を見たらどう思うだろう。


 見知らぬ土地で、パンを焼き、人に喜ばれている。

 金銭的に裕福かと聞かれればそんなことはないけれど、少なくともここには俺を必要としてくれる人がいる。


「“ありがとう”って、こんなにも温かい言葉だったんだな」


 独り言のように呟いた言葉に、リナは何も言わずそっと隣で笑っていた。


 火の灯りが徐々に細くなっていくのを眺めながら、俺はリナの横顔に目をやった。

 焚き火の明かりに照らされたその表情は、いつもより少しだけ大人びて見える。


 彼女もまた、明日のことを考えているのだろう。


「……緊張してる?」


 リナがぽつりと訊いた。

 俺は苦笑いしながら冷めかけたコーヒーをまた一口すする。


「まあ、少しはな。でも、いい緊張ってやつだよ」


 言葉にすると自分でも驚くほど落ち着いていた。

 不安がまったくないわけじゃない。でも、それ以上に「やってみたい」と思える気持ちが確かに心の中に根を張っている。


「きっと、うまくいくよ」


 リナが笑う。

 その言葉には根拠なんていらない。ただ信じてくれていることが嬉しかった。


 明日は俺にとって大きな節目になる……そんな気がする。


 トゥーリの人たちにとっては初めての味との出会いだ。

 そして俺にとっては村を出て初めて自分の手で新しい土地とつながるという試み。


 パンが、言葉以上に気持ちを届けてくれることを俺は知っている。

 だからこそ真剣に向き合いたい。


 一つ一つの工程に今まで以上に気持ちを込めて焼き上げよう。

 誰かの笑顔を思い浮かべながら手を動かす。それが俺のやり方だ。


「よし、そろそろ寝ようか。明日は、きっと長い一日になる」

「うん、そうだね」


 立ち上がった俺に、リナがうなずいて続いた。


 リナと別れたあと、俺はひとりで外に出た。

 夏場だが夜の風は少し涼しい。気持ちが落ち着いていたからか、すごく心地よく感じた。


 きっと大丈夫だ――そう思える夜だった。


 空を見上げると澄みきった夜空に星が瞬いていた。

 こっちに来てからというもの、星を見上げることが増えた気がする。


 会社員だったころは、夜空なんて見てもいなかった。夜は帰るだけの時間でしかなかったから。

 もしくは蛍光灯の下でせっせとキーボードを叩く時間か。

 どっちにしろ苦しくて虚しい時間なのは変わらない。


 けれど今は違う。


 今日一日を振り返って、明日を想像して……そんなふうに夜が使えるようになった。

 明日が楽しみで、何より——ちゃんと生きてると、思える。


「きゅう」

「ん?」


 モカが足元にやってきて、俺の脇にちょこんと座った。


「……ふっ、おまえも緊張してるのか?」


 問いかけてみると、モカは一度だけ小さく「くぅん」と鳴いた。

 まるで、「明日もがんばれよ」と言ってくれているみたいだった。


「ははっ」


 月明かりに照らされた道を見つめながら、俺は深呼吸した。

 パンの香りがこの村を越えてまだ知らない誰かの心を温める——そんな未来を思い描けたことが何より嬉しい。


「よし……明日は、焼くぞ。俺の“いつも通り”を、ちゃんと届けるんだ」


 そう呟いたとき、胸の奥で何かが灯るような感覚があった。


 それはきっと自分自身への信頼。

 いままでのすべてを込めて、俺は明日もパンを焼く。


 夜空の下で、俺は自分の中で徐々に覚悟が定まっていくのを感じていた。


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