トゥーリ村

第40話 森を抜けて、はじめての村へ

 朝露に濡れた草を踏みしめながら、俺たちはゆっくりと森道を進んでいた。


 荷車の車輪がゴトゴトと土の道を揺らすたび、積み込んだパン作りの道具や小麦袋が小さく音を立てる。

 木々の間から差し込む陽光が葉の影を足元に落としていた。


 先頭を歩くのはぴょこぴょこと跳ねるモカ。

 大きな耳を揺らしながら、時折こちらを振り返っては「早くおいでよ」とでも言いたげな顔をする。

 いつものように元気で森道でも臆する様子はない。

 たまに草むらに突っ込んでいっては小さな虫を追いかけているのが、後ろから見ていて飽きない。


「ねえ見て、あれ“魔香草”だよ。乾かすといい香りがするんだ」


 リナが木の根元に咲く紫の小花を指差す。

 俺も屈んでそれを見てみると確かに微かに甘い匂いがした。まるで森の中のアロマキャンドルみたいだ。


「森って案外にぎやかなんだな。音も匂いもいろいろあって」

「ふふっ、ね。静かだけどちゃんと“生きてる”んだよ」


 歩くたびに荷車の奥からふんわりとパンの香りが漂ってきて、それがこの道中にちょっとした彩りを添えていた。


 俺の焼いたパンがこうして旅のきっかけになるなんて……。

 ほんの数ヶ月前まで会社の蛍光灯の下で書類と睨めっこしていた自分からは想像もつかない。


「ちょっとここで休もっか。モカも喉乾いてるみたい」


 リナが木陰に腰を下ろすと、モカもぴたりと寄ってきて水をねだった。


 俺も隣に座って水筒の冷たい水を一口含む。

 森を渡る風が頬をなで額の汗を冷ましてくれた。


「旅ってもっと大げさなものだと思ってたけど……案外、こういうのも悪くないな」

「でしょ? あたし、こういうの好きだよ」


 モカが俺の足元でくるんと丸くなり、しっぽをぱたぱたさせる。


 俺はその小さな背中を眺めながら静かに息を吐いた。

 旅は始まったばかり。だけどこの小さな一歩が不思議と心に火を灯してくれる。


「この先を抜けたら見晴らしのいい丘に出るよ。そこからトゥーリの町が見えるはず」


 リナが指さす方向には、木々がまばらになり陽の光がより強く差し込んでいた。

 歩き慣れている様子で足取りも軽い。

 俺は荷車を押しながら少し息を整えて彼女の後を追った。


「この道、昔からあるのか?」

「うん。交易路として使われてたんだって。トゥーリの人たちが果物や織物を持って、村まで売りに来たりしてたんだよ。いまはそんなに往来はないけどね」


 なるほど。森にしては整った道だと思っていたが、そういう背景があったのか。

 悠久の時間の中で、道も人の営みを記憶しているのかもしれない。


「で、そのトゥーリって町はどんなところなんだ?」

「んー……村よりは人が多くて建物も大きいかな。でも、あたしが最後に行ったのは小さい頃だから今はどうなってるかちょっとわかんない」


 リナが恥ずかしそうに笑った。

 その表情になんとなく安心感がわく。


 俺も似たようなもんだ。

 見知らぬ場所に向かう不安と、それでも踏み出す好奇心。


 モカも草むらを抜けて前を行きながら時折こちらを振り返っては尻尾を振っている。


「村の人たち、トゥーリからいろんな品を仕入れてるんだ。調味料とか、布とか。だから悠介のパンもきっと珍しがってもらえると思うよ」

「……だといいけどな。味はともかく、俺の“商売”なんて初めてだし」

「大丈夫。味はもう保証付きだよ。村であんなに人気なんだもん」


 リナの言葉に少しだけ背中を押される気がした。


 旅の目的地がただの点ではなく、誰かとつながる可能性の場所に思えてくる。

 俺のパンがまた新しい誰かの笑顔に届けば、それで十分だ。


 風が森を抜け、少し先に広がる明るい空間へと俺たちを導いていた。


 森の道を進みながら俺は黙って足を動かしていた。

 荷車の車輪が石を乗り越えるたびにわずかな振動が腕を伝ってくる。その感覚すらどこか心地よかった。


 ここに来てから季節がひとつ巡った。

 最初はただの避難場所でしかなかったこの異世界の村が、今や“帰る場所”のように思える。


 そんな場所を、一時とはいえ離れることに不安がないわけじゃない。


「……ちゃんと焼けるかな、あっちでも」


 ぽつりと口からこぼれた言葉はリナに届かないほど小さな声だった。


 設備も違う。火加減も気候も、生地の発酵の具合だって変わるかもしれない。

 村の厨房とは勝手が違う中で、自分のパンがどこまで通用するのか……考えると自然と肩に力が入ってしまう。


 だけど――と、俺は空を仰いだ。


 木々の隙間から覗いた空は高くて澄んでいて、まるで村で見たそれと変わらなかった。


 パンの味も道具や環境だけで決まるもんじゃない。

 そう言っていたのは他でもない祖父だった。


「人のために焼くんだ。なら、どこでだって焼ける」


 その言葉が、ふいに胸の中に蘇る。


 俺のパンは誰かの「もう一度食べたい」って気持ちから始まった。

 だったらそれを信じて前を向こう。失敗したっていい。大事なのは誰かの笑顔のためにちゃんと向き合うことだ。


 そう思った瞬間、ほんの少しだけ背筋が伸びた気がした。


 森の出口が近づく。

 陽の光が強まり、旅路の先がようやくその姿を現そうとしていた。


「ねえ、そろそろ休憩しよっか」


 リナが荷車の横から顔をのぞかせる。

 すぐそばで歩いていたモカもタイミングを見計らったように尻尾をふりふりと揺らした。


「……そうだな。そこの切り株でいいか?」

「うん、ちょうどいいね」


 荷車を止めて、俺たちは道端の広場のような空間に腰を下ろす。


 森の中に差し込む光は柔らかく、木漏れ日の揺れる影がリナの肩に映っていた。

 彼女は荷物の中から水筒を取り出し、俺のぶんも手渡してくれる。


「ありがとな」

「ん、どーいたしまして」


 なんでもないやりとり。

 それなのに俺の胸の奥がほんの少し温かくなる。


 リナと話していると時々そんな瞬間がある。

 言葉じゃ説明できない、でも確かに心に触れるような感覚。


 気づけばリナとの距離はずいぶん近くなった。

 最初は“村の子”という印象だったのが今では“頼れる相棒”というか、もっと違う……言葉にするのが難しい。


「なに?」


 俺がじっと見ていたのか、リナが小首をかしげて笑った。


「……いや、こうして旅してるのがなんか不思議だなって思って」

「ふふ、あたしも。でもあたしたち、いいチームでしょ?」


 その言葉に思わず笑みがこぼれる。


「そうだな。最高のチームだ」


 モカがくんと鼻を鳴らし、俺の膝に頭を乗せてきた。

 リナがその様子を見てくすくすと笑う。


 まだ道のりは長い。

 でもこの二人と一匹とならどこまでも歩いていける。


 ――そんな気がした。



 休憩を終えて再び歩き始めてしばらくしたころ、森の緑が徐々にまばらになり木々の向こうに開けた視界が広がった。

 土の道が石畳へと変わり、小さな看板が道端に立っているのが見える。


「……あれ、もしかして」

「うん。たぶん、あれがトゥーリ村の入口だよ」


 リナが指さす先に小高い丘の上に立つ風車が見えた。

 そのふもとにいくつかの家屋が肩を寄せ合うように並んでいる。


 煙突から立ち上る白い煙。人の気配。

 遠くからでも確かに暮らしの息吹が感じられた。


「なんだか、少し緊張してきたな」


 俺がそう言うと、リナが笑いながら言った。


「大丈夫だよ。パンの力ってほんとすごいんだから。きっとこの村でも悠介のパンはちゃんと届くよ」


 その言葉に少しだけ肩の力が抜けた。


 モカがぴょんと先に跳ねる。

 まるで「さあ行こう」と言わんばかりに、しっぽを振って振り返った。


「……行くか」


 歩を進めるごとに村の輪郭がはっきりとしてくる。

 近づくにつれて人の話し声や荷車の音も聞こえてきた。


「そういえば、どこで焼くつもりなんだっけ?」

「えっと……手紙には広場に簡易かまどが用意されてるって書いてあったよ。あたし、前に来たことあるんだけど、広場っていってもけっこう大きくてね……」


 リナが話しながら先を歩く。

 その横顔を見つめながら、俺はふと背負ってきた荷物の重みを感じ直す。


 小麦粉、道具――そして期待。


 パンを焼くってことは、ただ食べてもらうだけじゃない。

 誰かの心に何かを届けることだ。


 ――はじめての村。はじめての出張販売。


 この先にどんな出会いが待っているのか。

 それはまだわからない。


 でもきっと、大切な何かが始まる気がしている。

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