第34話 今日も焼くか。で、明日も……生きよう
昨日の祭りの余韻が身体の奥にまだふわりと残っている。
人気のない早朝の空気は冷たく澄んでいて、肺の奥まで染み込むたび心まで洗われていくような気がした。
丘の上に出ると足元には朝露に濡れた草が広がり、遠くには村の屋根がいくつも寄り添って並んでいた。
早朝ということもあり家の前を掃除する人影も見えず、家の煙突から立ち昇る煙も見えない。
ひっそりとした
「……昨日の賑わいが、まるで夢だったみたいだな」
ポツリと漏れた言葉が静けさの中に溶けていく。
祭りでの子どもたちの笑顔、老婦人の感謝、リナやマルガレータさんのやさしいまなざし――すべてが胸の奥であたたかく灯っている。
俺はベンチ代わりの平らな岩に腰を下ろしゆっくりと深呼吸した。
空を仰げば薄い雲の合間から朝日がこぼれ、景色を金色に染め始めている。
村の一日がまた穏やかに幕を開けようとしていた。
視線を遠くに向けると、村の輪郭が朝の光に溶け込んでいく。
あの道を最初にリナと歩いたことを思い出す。異世界なんて信じられないと混乱していた俺に、彼女は当たり前のように「ここにいればいい」と言ってくれた。
その一言がなかったら、きっと俺はこの村の空気にもパンの香りにも心を許せなかっただろう。
マルガレータさんの家で最初に出された温かいスープ、リナといっしょに挑戦した久々のパン作り、モカとの出会い――すべてが少しずつ俺の中に積み重なっていった。
いつのまにか「異世界に来てしまった」という実感は薄れていた。
いや、正確に言えば“異世界だから”という線引きを、もう俺自身が必要としていないのかもしれない。
この場所で起きたことはただの出来事じゃなくて、俺の人生そのものになっている。
パンを焼いて、人と笑って、少しずつ日々が形になっていく。
それが不思議と心地よかった。ここがどこであろうと、俺にとっては確かな“今”だ。
そんなことを思いながら、風に揺れる木々の音にそっと耳を傾けた。
ふと自分の手のひらを見つめる。
昨日の夜も思ったことだが、改めて振り返っても変わったなと思う。
かつてはキーボードを叩くばかりだったこの手が、今はパン生地をこね、焼き上がりの温もりを確かめる日々を送っている。
あの頃の俺は常に数字や期限に追われていた。心をどこかに置き忘れて、ただ目の前の仕事をこなすことだけに意味を求めていた。
何かを作る喜びなんて、いつから遠ざかっていたのだろう。
けれど今は焼き上がったパンの香りに、子どもたちの笑顔に、村人たちの「おいしかったよ」の声に、心の底から温かさを覚える自分がいる。
変わったのは環境だけじゃない。
俺自身が変わったんだ。
まだ完璧じゃない。迷いや不安もある。
けれどそれでも前よりは確かに、何かを“感じながら”生きている。
リナの言葉、マルガレータさんの優しさ、モカのぬくもり。
たくさんの出会いが俺の壊れかけていた心をゆっくりと修復してくれた。
――俺は、ここで生きていく。
そう思えること自体がきっといちばんの変化なのかもしれない。
丘の上でそっと目を閉じる。
朝の風が穏やかに髪を撫でた。
もう一度、丘の上から村を見下ろす。
最初はただの通過点のように思っていた場所だった。
でも今は少し想像するだけではっきりと煙突から上がる細い煙、畑に向かう人の影、遠くから聞こえる笑い声が浮かんでくる。
そしてそれらすべてが自分の居場所を形作っていた。
村の人たちは俺に何かを期待してくれている。
パン屋としてだけじゃやなく、なんと言うかひとりの人間としての“坂本悠介”に対して。
けれどそれは重荷じゃない。
ただ、必要としてくれていることがありがたかった。
人間として扱ってくれることがありがたかった。
これからもっとできることを増やしていきたい。
パンの種類だってまだまだ工夫の余地があるし、畑と連携した新しいメニューだって考えられる。
いつか子どもたちが「パンのおじちゃんの店」と誇らしげに友達を連れてきてくれるような……そんな場所になれたら。
この村の風景に自分の明日を描ける――そんな気持ちを持てることがただ嬉しかった。
未来はまだ白紙だ。
でも、その余白がやけに心地よく思えた。
深く息を吸い込んで、丘の空気を胸いっぱいに満たす。
新しい朝の匂いがどこか背中を押してくれるようだった。
背を伸ばして振り返れば、昨日までと何も変わらない風景がそこにあった。
けれど俺の中では確かに何かが変わった気がする。
ほんの少しだけ、前を向く力が強くなった。
自分の足でこの場所に立っていられる気がした。
「そろそろ戻るか」
ぽつりと呟くと、丘の下からモカの鳴き声が聞こえた。
見れば小さな体で俺の姿を探すように跳ね回っている。
「……ふっ」
その姿がなんだか可笑しくて、思わず笑みがこぼれる。
パンを焼く。人と話す。
笑って一日を終える。
そんな当たり前が、ここではちゃんとあたたかい。
「今日も焼くか。で、明日も……生きよう」
そう呟いてゆっくりと丘を下った。
朝の光が木々の間から差し込んで村への小道を金色に照らしていた。
その先に続く日々はきっと優しく、そして少しずつ俺を前へ連れていってくれるだろう。
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