第2話 監視と接触
ネオ・トーキョーの夜は、徹底された無音で構成されている。
街灯の明かりは白く、歩行者の足音は消音舗装に吸われ、会話はそもそも必要とされていない。
すべては最適化され、均質化され、感情の波など起こらないように調整されている。
人々は「静けさ」を安心と呼び、それを乱す者を「危険」と呼ぶ。
――だからこそ、響の音楽は都市にとって“異物”だった。
響はその夜も地下にいた。
鍵盤の前で、彼はふと指を止めた。
今日の旋律は、いつもよりも少しだけ「誰か」の顔を思い浮かべていたからだ。
(零士……)
昨日までならば、ただ通り過ぎるだけの存在だったはずだ。
だが、あの冷たい目の奥に、確かに「揺れ」があった。それは彼の音が引き起こしたもの――それは確信だった。
「……また、来るよな」
呟いた瞬間、気配を感じた。
誰もいないはずの通路の奥で、空気がわずかに動いた。
「そこにいるんだろ? 隠れて監視ってのは、趣味悪いぜ」
沈黙の中から、一歩、そしてまた一歩と足音が現れる。
コートの裾を揺らしながら、天野零士が姿を見せた。
だが今日は階段を降りず、柵の向こうに立ったままだった。
「君が何をしようと、私は監視の任務を遂行する」
「へえ。で、任務中に“聴いて”たりしないのか? 俺の音」
「……その行為が影響を与えると判断されれば、私は排除される」
それは個人の意志というより、制度に染みついた論理だった。
「じゃあ、“排除されない範囲で”来てるんだ。つまり、お前なりに抗ってんだな」
零士は言葉を返さなかった。
けれど響は、それを沈黙とは思わなかった。
「昨日の音、覚えてるか?」
「記憶は自動的に処理される」
「へえ。俺の音って、記憶にすら残らないほど無意味だったわけだ」
その言葉に、零士のまぶたがわずかに伏せられた。
わずか――だが、確かに。
その揺れを、響は見逃さなかった。
「でもお前、また来ただろ? 何も感じないなら、来る必要なんてない」
「……」
「それとも、“何か”を知りたいのか?」
その言葉に、零士の指が通信端末へと触れた。
だが押さなかった。ただ、微かに震えた指をそのままに、彼は言った。
「確認が必要だった。君が本当に“共鳴因子”なのかどうか」
「じゃあ、確認できたか? 俺が“ノイズ”なのか、“旋律”なのか」
響は笑いながら、そっと鍵盤に指を置いた。
その旋律は、昨夜のものとは違っていた。
音は柔らかく、輪郭を曖昧にしながら、静かに夜を満たしていく。
まるで、聴く者の内側をそっと撫でるような――そんな音だった。
響は旋律の途中で、ふと手を止めた。
「なあ、零士。お前さ――誰かの名前、最近呼んだことあるか?」
零士は言葉の意味を測るように、眉をわずかに動かした。
「名前は識別子だ。親密性とは無関係だとされている」
「違う。名前ってのは“感情のフック”だ。誰かを思い出す時、まず名前を呼ぶだろ? 心の中でさえ」
鍵盤の上に置かれた手が、また静かに動き出す。
音はどこまでも滑らかに、そして迷いなく流れた。
それはまるで、響が“誰か”の名前を思い出すようにして紡ぐ旋律だった。
「お前にとって、名前ってなんだ?」
「……俺は天野零士。それ以上でも、それ以下でもない」
その声には、かすかな自嘲があった。
響はその機微を捉え、少しだけ目を細める。
「じゃあさ、もし“誰かにだけ呼ばれたい名前”があったら、それも排除対象になるのか?」
零士は答えなかった。
けれどその沈黙は、明らかに“考えている”ことを示していた。
セントラル・コアの中枢。
彼の不在時、システムのモニターには、警告が走っていた。
《天野零士:感情反応波形に変調あり》
《エラー値:閾値に達していないが、傾向変化が顕著》
その分析ログに、他のハーモナイザーたちは無反応だった。
彼らにとって“感情”とは、ただ記録し除去すべき数値でしかない。
だが、零士の異変は、静かに、しかし確実に進行していた。
彼の行動記録には、毎晩決まった時間に“地下区域への接近”が記録されていた。
数日後。
零士は再び響の前に姿を現した。
「今日も来たのか。仕事熱心だな」
響は皮肉交じりに言うと、今日もまた旋律を始める。
零士は柵の向こうに立ったまま、それを聴いていた。
それが命令違反になることを、どこかで理解しながら。
その日、響はいつもより短く音を終えた。
「なあ、零士」
名を呼ばれた瞬間、零士のまなざしがかすかに揺れる。
「一つ、質問していいか」
「……何だ」
「“感じる”って、怖いと思うか?」
静寂が、地下空間に降りた。
長い沈黙のあと、零士は初めて、ほんの少しだけ目を伏せて言った。
「……わからない。だが、怖いと思ったことは、ある」
響はその言葉に、深く頷いた。
「俺も昔、怖かったよ。だから――逃げてた。でもな、やっぱり逃げられなかった」
鍵盤を撫でるように指が走る。
それはまるで、過去の自分を抱きしめるような旋律だった。
「お前も、怖がってるように見えた。初めて来た夜。ほんの一瞬だけな」
「……」
「それでも、こうして聴いてるってことは――お前の中にも、残ってるんだよ。“何か”が」
零士は否定しなかった。できなかった。
響の音が、彼の中にあった記憶のかけら――名もなき感情の残滓を、少しずつ掘り起こしていた。
零士は、その夜、帰宅せずに都市の隅にある記録閲覧室へ向かった。
そこは、かつての人々の“過去”をアーカイブとして保管する場所。
今ではほとんど誰も足を踏み入れないその部屋で、彼は一つの音声ファイルを検索した。
――“母の記録音声ファイル。旧コード:フユキ・ミズホ”
検索結果は、“閲覧禁止”と表示された。
だが、何かが彼を突き動かした。
不正アクセスプロトコルを解除し、彼は音声ファイルを再生する。
ノイズ交じりの中から、優しい歌声が流れ出した。
《……だいじょうぶ。泣いてもいいの。感じるって、いいことなんだから……》
目を閉じたその瞬間、零士の中に記憶が蘇った。
母の顔。泣きじゃくる幼い自分。
そして、その背中を抱きしめてくれた、あのぬくもり。
忘れたはずの、捨てたはずの感情が、鮮明に蘇る。
その頃、響もまた自室で古い録音データを聴いていた。
それは母の歌ではなかった。
だが、誰かが悲しみに沈んでいる時、そっと寄り添うような声だった。
響の母は、感情抑制を拒否したことで“矯正処置”を受けた。
その日から彼は一人になった。
感情を表に出すと消される――そんな世界で、何を信じて生きればいいのか分からなかった。
だから彼は音楽を始めた。
感じることは、決して罪じゃないと証明するために。
「俺は、諦めたくないんだ」
零士の目に映った、あの最初の揺れを思い出す。
「お前みたいなやつが、この世界にまだ残ってるなら――」
希望はまだ消えていない。
そう信じたくて、今日も彼は地下へ向かう。
その翌日、二人は無言のまま並んで座った。
響は音を奏で、零士はただ耳を澄ます。
そこに言葉は要らなかった。
旋律が、二人の間のすべてを語っていた。
そして零士は、心の底で初めて「願い」を抱いた。
(この音が、終わらないでほしい)
その願いこそが、“感情”だった。
セントラル・コアの作戦室では、密かに“リセット手順”の準備が始まっていた。
「対象:天野零士。条件次第で即時除去」
「外部からの影響を断ち切るため、共鳴因子との隔離処置も計画中」
端末に表示されたその計画のファイル名は、こうだった。
《Project:SILENCE》
夜。
響は鍵盤の前に座り、目を閉じた。
「来るなら――今夜だろ」
しばらくして、足音が降ってきた。
姿を見せたのは、やはり天野零士だった。
「来たな」
「……来てしまった」
「理由は?」
「……わからない。でも、来なければ“何か”が終わってしまう気がした」
響は笑った。
「だったら、始めよう。お前と俺だけの音を」
ゆっくりと鍵盤に触れる。
その音は、都市が生まれてから初めて響く、“祈り”だった。
その音が、誰かに届くことを――
その共鳴が、誰かを救うことを――
まだ誰も知らない。
だが、確かに今、世界の奥底で何かが始まろうとしていた。
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