ヒューマニティについて
てると
ヒューマニティについて
朝起きて、十時間も寝たのかと思っていると少し寝すぎたと思う。
そう思うと、一人暮らしのこの部屋も、どうにも不穏に見えてくる。
要するに、寝すぎて感覚がいつもと違うのだ。
そしてわたしにある考えが去来した。曰く、「外が不安なのは、路上を歩く人たちが皆わたしのことを知らず、皆文脈を共有していないからだ」と。
わたしはこの考えにぞっとした。
ぞっとするけれども、どうしようもないが、どうにかしようとする。
いっそ有名になるか?それともなんでもご存じのイエス様をもっとくっきりとこしらえるか?それとも今の世を誰でも聖書の文脈で生きる人たちに改造すればいいのか?それとも、それとも、それとも……。
などなどとたわけたことを大真面目に考えつつ、少しプラットフォームの安心感が欲しくなり、仲のいいだんご屋の息子の友人と通話をした。
しばらく話したが、不安が消えない。
そこで仕方なく、通話を切った後のわたしは、食事を摂って落ち着こうと、勇気を出して近所のスーパーに買い出しに出かけた。
そうすると、なんのことはない、自転車に乗って行き交う男の思い出し笑いの饅頭潰したようなニヤケ笑いに、わたしは癒された。
そうしてみると、東京の道行く人すべてが案外にも疎遠ではないのである。
そこにふと、道を歩くわたしに「寅さん」が去来した。
こういうとき、わたしのヒューマニズムはいつも「寅さん」が駆動するのである。
そういえば、以前七十歳ほどの宗教学の講義の先生が、言っていたことがある。わたしはこの先生にとても親しんでいる。
「それが、誰にでも通じる相対的じゃないことって、あるんですよね。鹿児島の特攻の基地に食堂があって、そこの食堂のおばちゃんが、隊員のみんなに慕われて『お母さん』と呼ばれていたんです。それが今度は戦争が終わって米軍が来ると、そのおばちゃんは米軍の人にも同じように食事を出すんですね。」
そういうことだと思った。確かに、きっと、身体的プラットフォームにこそヒューマニティはあるのである。しかもそれは、精神は必ず相対的ということでもなく、精神にも共通のヒューマニティはあるはずである。
その領域はいわば「低レベル」と言われるかもしれないが、その低レベルさを担う人こそ、最も尊いと、わたしは思う。
ヒューマニティについて てると @aichi_the_east
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