第四話:引き返せない

金曜日の朝、崇はいつになく眠気を引きずって出勤した。

昨日の夜、湊の部屋で過ごしたあの数時間が、記憶の奥にじっと熱を残していた。


電車の中、誰もがスマホを見つめ、黙って揺られている。

自分もその一人のはずなのに、胸の奥で確実に何かが違っていた。


(もう、引き返せない)


崇は窓に映る自分の顔を見つめながら思った。

湊に触れているとき、罪悪感と同時に、確かな安堵を感じていた。

あれは逃避だったのか、それとも――




「崇さん、最近ずっと携帯気にしてるよね?」


家に帰ると、妻が唐突にそう言った。

いつもの食卓、息子がテレビに夢中になっている中、ぽつりと落とされた言葉に、心臓が跳ねた。


「……そんなことはない」


「そう? なんか、他のこと考えてるように見えるから」


「仕事が立て込んでるだけだよ」


会話はそれ以上深まらなかった。

しかし、その一言が胸に小さな楔のように残る。




午後三時、湊が広報部のフロアからやってきた。

手に書類を持ちつつも、視線が崇のデスクの上を一瞬だけさまよった。


「この資料、確認お願いできますか?」


「……わかった。すぐ見る」


誰にも怪しまれない、業務的なやりとり。

だが、湊がファイルに挟んでいたメモに気づいた瞬間、鼓動が跳ねる。


今夜、また来てくれる?


それだけの言葉。

だが、それは一日の全てを支配するのに十分だった。




その夜。

再び湊の部屋に足を踏み入れた崇は、開口一番にこう言った。


「おまえ、もう少し警戒しろ。誰かに見られたら――」


「見られたら、どうなる?」


湊の声は低かった。

部屋の照明は落とされていて、間接照明がその表情をほのかに照らしていた。


「崇さん、怖い? バレること、失うこと……」


「当たり前だ。俺には家庭がある。子どもも……」


「でも、来たじゃん」


湊はソファに腰を下ろし、ネクタイを緩めながら言った。


「崇さんが今ここにいるのは、理性じゃない。気持ちでしょ」


「……っ」


言葉が出なかった。

代わりに、崇は歩み寄り、湊の胸倉を掴むようにして押し倒した。


「黙れ」


「うん……崇さんが、全部忘れさせて」


唇を重ねる。

その瞬間、すべての理屈も後悔も押し流される。

湊の細い体が崇にすがりつき、服の隙間から肌が覗く。


シャツを脱がせる音、ベルトの金具が外れる音。

崇の手が、湊の腰から背中へと滑り、湊は震えながら足を絡めた。


「っ、く……湊……声、我慢しろ……」


「やだ、もっと……ちゃんと聞いて……俺が感じてるってこと……っ」


濡れた音と、息の混ざる吐息だけが、部屋の中にこだました。

崇は湊の奥深くまで自分を沈め、名を呼びながら、現実から遠ざかっていった。




シャワーを浴びたあと、湊がぽつりと呟く。


「ねえ、崇さん。俺、何も望まないって言ったら、また来てくれる?」


「……望むなと言われても、おまえのことを考えてしまう」


「それが、嬉しいんだよ。俺にとっては」


崇は答えられなかった。

ソファに座る湊の横に腰掛け、黙って肩を引き寄せる。


時計の針が午前0時を回る。

また、帰れない夜が終わろうとしていた。


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