第一話:その夜を越えて

終電を逃したのは、たまたまじゃなかったのかもしれない――そう思ったのは、駅前のホテルの部屋でシャツのボタンを外しながらだった。


「……おまえ、酒、強いんじゃなかったのか」


崇の声は低く、苦笑まじりだった。


湊はベッドの端に腰を下ろし、ネクタイを引き抜いた。いつもの無邪気な笑みではなく、どこか醒めた瞳で崇を見つめている。


「ほんとはあんまり飲めない。でも、今日は飲みたかったんだ。崇さんがいたから」


崇はその言葉に一瞬だけ眉をひそめた。湊は続ける。


「崇さん、最近、笑ってないよね。前はもうちょっと柔らかかったのに」


「……そう見えてたか」


シャツを脱ぎかけたまま、崇は黙り込む。沈黙が部屋を包んだ。外の喧騒はガラス越しに遠のき、ただ二人の呼吸だけが重なっていく。


湊が立ち上がり、ゆっくりと崇に歩み寄った。近づくほどに、彼の吐く息の温度が肌に触れる。シャツの前を開けたままの崇の胸元に、湊の手がそっと触れた。


「……崇さんも、寂しいんでしょ?」


その一言に、崇の指がピクリと動いた。拒むでも、押し返すでもなく。逆に湊の手を取って、自分の胸に引き寄せた。


「……やめとけ。後悔するぞ」


「してるよ。もうとっくに」


湊の瞳は揺れていた。そこには欲望と、哀しさと、焦がれるような切なさが混ざっていた。

その視線に、崇はなぜか抗えなかった。


湊の唇が、崇の首筋に触れた。躊躇いが混ざった、それでも確かに熱を帯びた接吻。崇は目を閉じた。


結婚している。子どももいる。

そう何度も自分に言い聞かせてきたのに、その夜の湿った空気と、湊の指先の温度が、すべてを溶かしていった。




ベッドの上で、互いの体温を確かめ合うように崇は湊を抱いた。


最初は静かだった。言葉も少なく、ただ触れることに集中していた。

湊が服を脱ぐたびに、崇の喉が鳴る。背中に回した手が、力を込めて湊を引き寄せた。


「……ずっと、こうしたかったのか?」


「わかんない。崇さんを見てたら、勝手に……」


息が詰まりそうなほど、熱かった。

湿った肌が重なり、体の奥に堆積していた渇望が、少しずつほどけていく。

湊が首筋に爪を立てると、崇はわずかに呻きながら、深く腰を沈めた。


「……っく、あ……崇さん……っ」


「声、抑えろ……壁、薄い……」


そう言いながらも、崇の動きは止まらない。

押さえつけられたシーツが乱れ、身体の奥に突き刺さるような一体感が、ふたりを現実から遠ざけていった。




夜が明けるころ、湊はベッドの端で煙草に火をつけた。

崇はまだ寝ている。その寝顔を、湊はしばらく無言で眺めていた。


「……たぶん、俺、もう戻れない」


煙を吐き出しながら、湊は独り言のように呟いた。

それが何に対する言葉なのか、自分でもよくわからなかった。ただ、今夜越えた境界線が、何かを変えてしまったことだけは確かだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る