2 戦場の景色

 2 戦場の景色


 飛行機のタラップから降りて人生ではじめて異国の地に足をつけた感想は、あれ、意外とふつうだな、だった。

 M国と呼ばれる東南アジアの共和制国家の空港には、旅行客だろうか、浮かれた様子の人の姿がまばらに見られた。空は青く高く、大きな実をつけたヤシの木が、日光を浴びて悠々自適に伸びている。駅の構内にある誘導看板や土産屋、売店の店名のたぐいはたぶんほぼ英語だった。たぶん、とボカしたのは使われている文字がアルファベットであること以外は何もわからないからだ。物知らずなわたしにとって未知の言語である可能性もゼロではない。

 正直、拍子抜けだった。日本にいた頃、最後にM国の名前を聞いたのはもう何年も前のことになるけれど、それは紛争だとかクーデターだとかの物騒なニュースでのことだった。もうしばらくニュースにもなってないから、この国の存在は、わたしの記憶からフェードアウトしていた。水崎さんから行き先を聞いたときは、えっそこってまだ紛争してたの? とびっくりしたくらいだ。

 しかしこうしてあらためてM国に到着してみると、やはり同じ感想が湧いてくる。

 ここって、本当に紛争している国?

「あー……だる……」

 後ろからウイルスに感染してゾンビになりかける一歩手前のような声が聞こえた。

「水崎さん……だいじょうぶですか?」

「うー……まー、いつものことだから」

 いい女の美しすぎる顔を真っ青にして、水崎さんはふらつきながらキャリーケースを引いていた。

 そんな彼女を見ていたら、自然と、くすり、と笑みがこぼれた。

「ちょっと意外でした」

「うー……何が?」

「乗り物酔いするんですね。水崎さんキリッとしてますし、鍛えられた傭兵ってそういうの平気そうなイメージがありました」

「そりゃあ人間だからね。苦手のひとつやふたつは……うっぷ」

「ビニール袋ひろげておきましょうか?」

「へいき……ひっこめた」

 水崎さんは曲げていた体をぐいっと伸ばして天を仰ぎ、すぅー、はぁー、と深呼吸した。

 すこしずつ顔に血色が戻っていくのがわたしにもわかった。

 かわいいな、と思う。

 新しい職場の先輩に対して、しかも戦地で傭兵として戦おうというのに我ながら呑気なものだ。でも、直感でそう思ってしまったんだから仕方ない。第一印象が第一印象なだけに隙のある姿が妙に愛らしく見えてしまう。スタイリッシュな黒豹がひなたぼっこして体をのびーっとしている動画があったら無条件でイイネを押しちゃうあの感覚だ。

 落ち着いてきたのか、最後にいちばん大きな息を吐くと、水崎さんは自嘲っぽい笑みを見せた。

「これさえなきゃ自衛隊やめてなかったんだけどね」

「自衛隊員だったんですか」

「まあね。ていうか先進国に住んでて傭兵やろうなんて発想になるやつ、ほぼ自衛隊とか軍隊出身だよ」

 君は何故か違うけど、という意味を含んだ、じっとりした眼差しが向けられる。

 それについては何かごめんなさいという気持ちになった。そんな気持ちになったところでいまさら日本に帰れるわけでもないし、帰る気にもならないけど。

「航空自衛隊とか絶対無理。戦闘機に乗ったらコクピットがゲロまみれになる」

「海には志願できなかったんですか」

「凛子さ、君、船酔いって単語を知らないの? あんなゆらゆら環境、絶対死ぬよ?」

「たしかに……。じゃあ、陸上自衛隊……って、戦車とかに乗ったらそっちもつらいですかね」

「いちばんマシではあったね。実際、私は陸自だったし」

「それでも続けられなかったんですか?」

「…………」

 一瞬、水崎さんが黙る。

 そして、すこし間を空けて言う。

「どーだろね。続ける道もあったのかもしれないけどね」

 まるで他人事のような投げやりな物言いだった。あまり昔のことは思い出したくないのかもしれなかった。

 人には過去がある。職場の同僚にわざわざ開示したりしない濃厚な記憶もあるだろう。

 わたしにだって思い出したくもない、言いたくもない過去があるのだから、わたしよりもずっとたくさんの経験をしてきたであろう水崎さんなら何倍も何十倍も触られたくないデリケートな場所があるはずだ。だからこれ以上はつっこまない。つっこむべきじゃない。

 わたしがあえてそれ以上の興味を示さずにいたら水崎さんも察してくれたらしい、表情をぱっと切り替えて微笑んだ。

「先輩の昔話に長々と付き合わせる趣味はないよ。さあ、行こっか」

「はいっ。よろしくお願いしますっ」


 空港から出たわたしたちは大型バスに乗り込んだ。M国のバスは日本のそれと見た目がほぼ変わらず、錆びたブリキのおもちゃみたいなものを想像していたのもあって意外だった。無意識に外国(それもこのあたりの地域)の文明が日本ほどは発展していないのだろうと思い込んでいたのかもしれない。ひどく無知だった自分が恥ずかしい。反省。

 しかしそれにしてもバスも日本と大差なく、他の乗客の様子も特に殺気だったところもなく、まったくもって紛争地域という気がしない。頭上の収納棚にキャリーケース、膝上にポーチ。ポーチの中には貴重品と化粧品と生理用品といざというときのための下痢止めや抗生物質。窓の外を眺めればちょっとだけ新鮮な景色ときて、何だかもう観光に来てるだけなんじゃないかと思えてくる。

 酔って苦しそうにしている隣の席の美人がいちばんの非日常的光景だった。

 一時間も経つと、バスの窓の外の景色がだいぶ見慣れないものになってきた。

 空港のそばは日本と見分けがつかなかったけれど、建物の高さも低くなり道の舗装具合も甘くなってきて、M国と聞いて何となく想像していた光景に近づきつつあった。

 そういえば日本でも都心部から田舎へ移動すると景色ががらりと変わったなと思い出す。平和な観光地から戦地へ向かうのと比べていいものか微妙なところだが、少なくとも生身でそう感じてしまっているのだから仕方ない。

 景色に緑が増え、山間に入っていくところにやや拓けたパーキングエリアのような場所があって、バスはそこで停まった。

 わたしはぐったりしている水崎さんに肩を貸しながら、荷物をまとめてバスを降りる。

 降りる直前、バスの運転手が話しかけてきた。何語かすらわからずにわたしがあたふたしていると、肩の上で水崎さんが顔を上げて、運転手へと一言、二言、何かを告げた。

 もちろん彼女が何を言ったのかもわたしにはわからなかったが、運転手の納得したような表情を見るかぎりコミュニケーションはうまくいっているようだった。

「今、なんて?」

 わたしは素直に訊いた。

「この先のジャングルはいま危ないけど平気か、ってさ。記者なんで大丈夫って言ったら納得したよ」

「嘘をついたんですか?」

「そりゃ傭兵として参戦するつもりだとか言って通報されたらヤだし」

「通報……えっ、傭兵って犯罪者扱いなんですか」

「戦場による。M国で起きてる紛争は国と国内の少数民族との戦い……つまりは内部紛争だからね。私らは少数民族側につく予定の傭兵だから、M国にしてみたら犯罪者みたいなもんだよ」

「ふえー」

 無自覚に不名誉な称号を手に入れてしまったみたいだ。

 実質犯罪者、というレッテルを毛ほども気にしていないのか、水崎さんは日本にいた頃と何ら変わらぬ恬然とした様子で歩き出した。

 草木を分け入るように道なき道を蛇行していく。塗りたくったような緑の空間には濃厚な植物の香りと獣や鳥の息づかいだけが感じられて、人の気配はすこしもなかった。

 そんな中を自分の二本の足で歩いていると、なんだか原始の世界に迷い込んだみたいで、非日常感にちょっとどきどきする。

 ジャングルでの水崎さんはすごくスマートだった。地面から出っ張った木の根っこやぬかるみに足を取られることなく、蜘蛛の巣や雑に伸びた蔦にまとわりつかれることもなく、器用にひょいひょいとかわしながら進んでいく。それどころか、ご丁寧に一個ずつ自然界の罠にかかってひゃあひゃあ言ってるわたしに手を差し伸べてフォローまでしてくれた。

 乗り物酔いで死にかけてた人と同一人物とは思えない。もしかしたら水崎さんにとって、自然の中こそが日常で、現代社会こそが非日常なのかもしれなかった。

 しばらく進むとようやく道らしい道が見えてきた。

 舗装されているというには心もとないが、けもの道というほどでもない、ぎりぎり車も通れるであろうくらいの道だ。

 ふいに、水崎さんが心底うんざりしたような声を漏らした。

「はあ……地獄の時間」

 どうしたんですか、と訊くよりも先に、その理由をなんとなく察した。

 道の先に車が停まっていたのだ。暗緑色のジープで、開いた窓から白くて長い腕がにゅっと出ている。

 バックミラー越しに運転手と目が合った。こちらを見つけた青い瞳がきゅっと大きくなったのが見えた瞬間、パッパッパー! パッパッパー! とけたたましいクラクションの音が鳴り響き、驚いた鳥たちが一斉に飛び去っていく。

『ヘイ! ナギサ! ヘイヘイ、ウェーイ!』

 英語能力ゼロのわたしにも理解できる言葉を発して、たぶん運転席で跳ねまくっているのだろう、ずっこんばっこん車体を揺らしながら水崎さんに呼びかけていた。

「うっさい。凛子が驚いてるだろ」

 そう言って、水崎さんは容赦なくジープを蹴った。

「リンコ?」

 運転手が窓から顔を出した。わたしを見ると、ワオ、と大げさに声をあげて、派手な音を立ててドアを開けた。

「わっ」

 思わず声が出た。

 車から降りてきたその人が予想以上に大きかったからだ。

 身長は180センチ近く。引き締まった筋肉質の体。袖のない薄手のトップス。こぼれんばかりの大きな胸が目についてしまう。下半身は濃いグリーンのズボン。足は動きやすそうなブーツ。鮮やかな金髪の上には、申し訳程度に載せましたと言わんばかりの、いまにもずれ落ちそうなベレー帽。全体的にだらしなさそうな印象の、けれど水崎さんに勝るとも劣らない美女だった。

 彼女はわたしの両手を取りブンブンと激しく上下に振りながら、何事かをまくし立てている。

 英語を理解できないわたしは彼女のセリフをこれっぽっちも理解できなかったが、後になって水崎さんから教えてもらったところによると、どうやらこんなことを言われていたらしい。

『ナギサ以外の日本人、初めて見たよ! ちんちくりんでカワイイね~! こーゆー女の子めっちゃ好みなんだよねぇ。アタシってば男女平等平和主義者だからさぁ、カワイイ子はみーんな食べちゃいたくなるの! アタシの専属愛玩ペットにならない? ……って、英語通じない感じ? マジか! じゃあセクハラし放題だね! ファック!』

 翻訳されても意味不明だった。

「彼女はノーザン・スミス。私と同じ部隊で活動してる傭兵だよ」

「同じ傭兵……」

『よろしくぅ!』

 金髪美女のノーザン・スミス。彼女の笑みはどこまでも人なつっこい笑みだった。

 とても友好的に見える。だけど気のせいだろうか。舌なめずりをしながら品定めをする肉食獣みたいな目をしているような気がした。わたしのことを食べようとでも言うのだろうか。絶対おいしくないのに。

 スミスさんの車に乗せられてふたたび移動することになった。彼女の運転は第一印象の通り荒くて、道のでこぼこに逆らう気などないと言わんばかりに、車体が弾むままに任せている。もちろん水崎さんはぐでんぐでんだった。

 水崎さんの顔色が白から青に変わりかけたところで、目的地に着いた。

 そこは集落だった。見たことのない民族衣装をまとった人たちが、車から降りるわたしたちに興味深そうな目を向けている。こう言ってはなんだけど、紛争地域と聞いて最初に思い浮かべていた光景だと思った。初めて都会に出たときと同じように、みっともないとわかっていつつも、つい周囲をキョロキョロしてしまう。そんなわたしの姿は水崎さんやスミスさんにはどう映っただろうか? ちょっと不安になった。

 ふたりの先輩傭兵の背中を追いかけていくと、集落の外れあたりにいくつもの緑のテントが密集しているのが見えてきた。集落の人たちとあきらかにちがう、厳つい雰囲気の男女の姿が多い。あたりまえのように服に銃を差しているし、背丈も、筋肉のつき方もとてもカタギさんには見えなかった。

 すれちがう軍人さんたち(もしくは傭兵さんたち)が気さくに話しかけてきて、スミスさんが陽気に、水崎さんがそっけなく対応する。わたしはというと言語すらわからないので、とりあえず曖昧に笑って会釈しておいた。これぞ日本人の処世術。たぶん。

 いちばん大きなテントに連れて行かれると、ちょっと仰々しい紋章を軍服につけたひげの濃いおじさんに紹介された。

「この部隊の隊長。日本語でいいから適当に挨拶しといて」

「え、あ、はい。伊澄凛子です。今日から傭兵として来ました。よろしくお願いします」

「…………」

 隊長は表情をピクリとも変えず、クイッと親指で入口から見える隣のテントを指した。

 意味がわからず、わたしは無言になってしまった。

 すると水崎さんが言う。

「寝床はそこのテントだから自由にしろってこと。ま、私と同じテントだね」

「そ、そうなんですね」

『ちなみにアタシも同じテント! 夜の方もバッチリ仲良くしよう!』

「ノーザン。腕、ふっ飛ばされたい?」

『おーコワイコワイ。冗談に決まってるじゃん、本気にすんなよぉ。アタシはいつだってナギサ一筋だから、心配すんなって』

「……口の減らないやつ」

 表情と体の動きだけでもだいたい何を言い合ってるのかが何となく想像できた。

 コミカルなやりとりをしながら隊長のテントを出る。

 自分たちのテントに移動しながら、わたしはふと気になることがあって水崎さんに訊いてみた。

「わたしの挨拶、隊長さんに通じてたんでしょうか?」

「さあね。リンコ、って名前ぐらいは覚えたと思うけど」

「アバウトなんですね。軍隊ってもっとちゃんとしてるのかと思ってました」

「軍隊ならね。私らは傭兵。軍人じゃないよ」

 あっさりした言い方に、えっ、と思ってわたしは訊いた。

「傭兵と軍人って何が違うんですか?」

「凛子、バイト経験は?」

「あります」

 履歴書にも書いたんだけど、たぶん水崎さんは読んでないんだろう。

「それと同じ」

「同じって……正社員が軍人で、アルバイトが傭兵ってことですか」

「そう。正確に言えば正規と非正規の違いかな。正社員でもない私らを教育する気はゼロ。てかそんな金も時間もない」

「はあ」

「もっとも隊長も正規の軍人と呼んでいいか怪しいけどね。M国の内乱を支援してる隣国の軍人だけど、鼻つまみ者の荒くれが左遷されてきて民兵や傭兵に指導してるだけだし。いち民族の正規軍なんてちょっと上等な山賊みたいなもんだよ」

「山賊って」

 一緒に戦う仲間に何たる言いぐさだろう。悪口が聞かれたら殺されるのでは、とビクッとして周りを見てみるけど、よくよく考えたら日本語を理解できる人なんか他にいるはずもなかった。すれちがう兵士がこちらを一瞥すらしなくて、わたしはホッとした。

 水崎さんはこの部隊や隊長にあまりいい感情を持ってないらしい。もしかしたら、悪い感情もなくて、ただただフラットなのかもしれないけれど。

 目的のテントに着いた。

 今日からわたしの寝床になるテントの中は、あたりまえだけど質素な雰囲気だった。

 最低限のテーブルと簡易ベッド。大きな収納ボックスの中にはいろいろな人の荷物が雑に詰め込まれていて、凛子の荷物もそこに入れればいい、と、水崎さんが自分の荷物を投げ入れながら言った。

 おおざっぱだなぁと思うけれど、郷に入っては郷に従え、言われたとおりにぶん投げた。小さい頃から「物を大事に扱いなさい」と、わたしを大事に扱ってくれなかった親に言いつけられて生きてきたので、ちょっとだけ胸がすく思いがした。水崎さんや傭兵たちの仲間入りができた気がしたのもうれしかった。まだ戦闘も経験していないのに。

「しばらく前線には出ないし、訓練をつけるのは明日から。凛子も今日はゆっくりすればいいよ」

「あ、はい。……水崎さんは?」

「夕飯まで寝る」

 そう言って、彼女は自分のベッドに背中を沈めた。目を閉じてすぐに寝息を立て始めている。

 まだ日が高いのに。やっぱり乗り物での移動でやられてたんだろうか。

 ……夕飯の時間まで何をしていよう。

 とつぜん放り出されて頭の中が迷子になってしまう。まだ眠たくはないがスマホは電波が通じてなくて、動画も漫画もSNSも見られなかった。外をぶらつこうかとも一瞬考えたけれど、ひとりでいるときに言語の通じない相手に話しかけられたらヤバいなぁとか、変な場所に迷い込んだら絶対に帰ってこられないなぁとか考えたら出歩く気になれなかった。

 やることがないので、自分のベッドに腰かけてぼんやりと水崎さんの寝顔を眺めることにした。

 美人の寝顔はやっぱり美人だった。まつげも長いし、顔のかたちも美術室の彫刻みたいにきれいな凹凸がある。起きているときは傭兵らしい(といっても、らしさを語れるほどまだ傭兵のことを知らないけれど)冷たさや厳しさみたいなものが顔つきにもにじみ出てる気がしたけれど、眠っている彼女の顔は童話の中のお姫様のように見えた。

 キスをしたら目覚めるタイプの、と、脳裏をよぎった瞬間、わたしの目が勝手に彼女のくちびるをクローズアップしてしまう。やわらかそうな桃色。意識したらすこしドキッとしてしまい、そんな自分の反応にもすこし後ろめたさを感じた。

 水崎さんと行動するようになってから彼女の外見にばかり注目してしまっている。

 もちろんわたしにも言い分はある。水崎さんはあまり自分語りをしないし、必要最低限の会話しかしてくれないので外見をまじまじと観察する以外にやれることが何もないのだ。自分から話しかければいいだろと言われたらぐうの音も出ないけど、傭兵とはいえ職場の先輩、そんな気軽に距離を詰められるはずもないわけで。

 ……とりあえず壁でも見てよう。

 物理的に彼女から目をそらすために背を向けると、壁をよじよじのぼっている見たことのない虫を観察しながらわたしは夕飯までの時間をつぶすのだった。


 日が沈むとともに目覚めた水崎さんに連れられてテントを出た。向かった先は集落の端のほうにある大きな建物で、掲げられている看板や広々としたテラス席(という単語からイメージされるような都会のお洒落なそれではなく、質素なものだったけれど)からしてこの集落で経営している飲食店のようだった。どうやら朝と夜にこのお店の人たちが夕飯を振る舞ってくれるらしい。

「ここの店主は民族のために戦ってくれる傭兵に感謝してるんだ。すごく好意的に接してくれる」

「そうなんですね」

「屋外で、木のテーブルと椅子で。東京だとあまりない光景で新鮮だろう」

「なんだか中学の頃に学校でやらされたキャンプを思い出します」

「ああ、そういえばあったね。昔すぎて忘れてた」

「忘れてるってことは嫌な思い出が少なかったんでしょうね。わたしは集団生活しんどいって記憶がバッチリ鮮明です」

「へえ、集団生活が苦手なんだ。べつに気にならないけどね、凛子のコミュニケーション」

「一対一ならマシなんです。その人に嫌われないように気をつけられるので……。でも、人数が増えれば増えるほど『嫌われ可能性』が上がるといいますか、どこで誰のヘイトを買ってるかわかんないなーって気になってきちゃって」

「安心しなよ。ここには集団生活がへたくそなやつしかいないし──」

 何よりも、と言って、彼女は続けた。

「──凛子にとってはどうせ言語が通じない相手ばかりなんだ。何言われてるかわからなかったら、都合のいい解釈をしておけばいい」

「都合よく……」

 目からうろこの考え方だった。なるほどそれは生きやすそうだ。

 水崎さんはドライな物言いで新しい視点をくれる。こんな親や先生が欲しかった。

 慣れた様子で木の椅子に座る水崎さんにならって、わたしもその隣に腰を下ろす。何人かの傭兵たちがすでに着席していて、豪快に酒をあおってはしゃいでいた。

 その中にはスミスさんの姿もあって、わたしと目が合うと彼女は陽気に手を振ってきた。他の仲のいい傭兵たちとつるんで飲んでいるからかこっちに来る気配はなくて、わたしはホッとした。正直、あの人はちょっと苦手だ。

 店のドアが開いて、何人かの店員らしき人が料理を運んできた。現地の住民なんだろう、みんな同じ民族衣装を着ている。

 ふとその店員さんたちの中に小さな姿を見つけた。まだ十歳かそこらの女の子だ。

 体格に不釣り合いな大きな皿を両手に、とことことこっちのテーブルまで歩いてくる。

「かわいい」

 素直な感想が口をついて出た。低い背丈でも目一杯に背伸びして、テーブルの上に皿を載せてくれる。

「ありがとう。お名前は?」

「……?」

 返事はなかった。わたしを見つめたまま、女の子は不思議そうに首をかしげている。

 あっ、と気づく。そうだよね、日本語じゃ駄目だよね。

「えーっと、ユア・ネーム・イズ……?」

「凛子、それぜんぜん違う」

「ううっ……英語2ですみません……」

「成績を自白しなくていいよ。あとその子──ニノは英語もしゃべれない」

「……ッ。……ッ」

 こく、こく、とニノという女の子は二度強くうなずいた。英語、しゃべれない、という言葉の意味だけは何となく理解しているようだ。

「ニノちゃんっていうんですね」

「ニノ・ミント。この店の店主の娘さんでね。お手伝いをしっかりしてるイイ子なんだ」

 そう言いながら水崎さんはニノちゃんの頭を撫でた。

 あごを触られた猫みたいにニノちゃんは気持ち良さそうな顔をしている。

 水崎さんの表情はいままで見た中でいちばん優しくて、まるで仲のいい姉妹のように見えた。

 ……いいなぁ、羨ましいなぁ。

 兄や姉が欲しいと思ったことは何度もある。つらいことがあるたびに、上のきょうだいがいたら守ってもらえたんじゃないかって甘えた妄想に浸っていた。

「ん? どうかした?」

「あ、や、なんでもないです。わたしもニノちゃんを褒めてもいいですか」

「ふふ、おもしろいことを言うね、凛子は。私の許可が必要な話でもないだろう」

 すこし笑うと水崎さんは、凛子もお礼を言いたいってさ、とニノちゃんの背中を押した。

 とててと目の前にやってくるニノちゃん。褐色の肌と組み合わさるとよく映える、紅玉みたいな目でじーっとわたしの目を見つめていた。

 その小さな頭に手を乗せて、わたしは言う。

「お料理、ありがとうね」

「…………」

 こくり、と彼女はうなずいた。

 言語は通じていないけれど、心は通じたのかもしれない。

 小さくて温かくてずっと頭を撫でていたかったけれど、いつまでもお手伝いの邪魔をするわけにもいかない。名残惜しい気持ちでニノちゃんを解放すると、彼女はわたしの手から抜けてとててとお手伝いに戻っていった。

 それから数分でテーブルの上に料理一式が出揃った。皿によそったお米。大皿に盛られているのは日本とはちょっと見た目のちがう野菜炒めや和え物が主だったが、中には料理の名前もよくわからないものもあった。

「赤茶色のこれって……麻婆豆腐ですか?」

「トゥアナオ入りカノムジーン・ナムギャオ」

「え?」

「トゥアナオ入りカノムジーン・ナムギャオ」

 一度では聞き取れなくて聞き返したのだが、二度言われてもよくわからなかった。

「それって、なんですか?」

「さあ? 私も知らない。そういう名前の、このあたりの伝統料理らしいよ」

「なるほど……」

「トゥアナオっていうのは味噌や納豆に近いかな。大豆の発酵食品を塩と香辛料で漬けたもの。それを、豚のスペアリブやトマトをベースにしたスープにも入れてるんだ。多少の癖はあるけど、麺料理だからするっといけて美味しいよ」

「食べたことないので、楽しみです」

 説明を聞いているだけで口の中にこみあげてくるものがあった。淡々とした語りなのに、水崎さんの説明は妙に想像力をかきたてる。傭兵だけじゃなくて、食レポの才能があるんじゃなかろうか。

「さ、乾杯しようか。凛子との初めてのディナーに」

「……お洒落なこと言うんですね」

「食事の時間が人生における一番の楽しみなんだ。大事にしたいんだよ」

 誰かと一緒に食事するのを楽しいと感じたことなんて一度もなかった。

 実家では家族の顔色をうかがいながらの食事ばかりだったし、ひとり暮らしを始めてからは食事はただの栄養補給でしかなくて、楽しいとか楽しくないとかいう次元で語るような行為じゃなかった。

 だからわたしは水崎さんの価値観に素直に驚いたし、羨ましいと思った。

 楽しめるものなら楽しみたい、とも思った。

 水崎さんはコップにお酒らしき黄金色の液体を注ぐと、軽くこちらに掲げてみせた。

 わたしはすこし考えてから、水をコップに注いだ。日本の法律が届かぬ外国といえども小市民たるわたしには堂々と未成年飲酒する度胸なんてあるはずもなくて、合法コップをおずおずと水崎さんの酒入りコップに向ける。

「乾杯、です」

「ああ、乾杯」

 コツン、と優しい音が鳴った。温かい乾杯だった。

 お酒にしないんだ? という疑問さえ投げかけず、ありのままのわたしの行動を彼女は受け入れてくれた。その事実がうれしかった。

 水で口の中を潤すと、わたしはさっそく例のトゥアナオ入りカノムジーン・ナムギャオに狙いを定めることにした。

「わ、おいしい」

「ひとくちめからその感想が出るんだ。いいね」

「ふつうは違うんですか?」

「ふつうがどうかは知らないよ。私は最初、癖を感じて慣れなかった」

「これまでずっとそうだったんですけど、癖の強さって、いまいちピンとこないんです」

「珍味がイケるタイプなのかな」

「舌が馬鹿なだけかもしれません。初めて食べる味でも、あーこれはこういう味なんだなって思うだけで。なんだこの味は! ってなったりしません」

「順応力が高いのかもね。……まあでも私の凛子の解釈とは一致、かな」

「えっ」

 わたしに順応力が高いイメージがあったってこと?

 自分に対する自分の解釈とはぜんぜん一致しないのだけれど。

「軍隊経験なし、完全業界未経験で傭兵になろうって時点でアレだよ。それでいて最前線じゃないとはいえ、もう戦地のすぐ近くまで来てるっていうのにこの落ち着きよう。器が大きいというか、順応が早いというか。……いい意味で鈍感力があるんだろうね」

「えっと、ごめんなさい」

「どうして謝るの? 褒めてるのに」

「褒められてたんですか?」

 わたしがそう訊くと、水崎さんが変な顔をした。怪訝さ四割、哀れみ四割。残り二割は好奇心をくすぐられているような。

「ごめんなさい、わたしちょっと、言葉のとらえかたが変みたいで」

 言葉の中にすこしでもネガティブな意味を持つ単語が含まれていると、つい責められていると感じてしまう。

 今回の場合は、鈍感、がそれだ。

 文脈や声の優しさから責める意図はないのだと理性では察している。でも脳よりも先に脊髄が言葉を発している。謝ってしまう。これはもうデフォルト設定の呪いのようなものだと思って自分では諦めていた。

「ふぅん。いろいろあるんだね、凛子も」

 水崎さんはその言葉を最後にそれ以上は掘り下げて聞いてこようとはしなかった。

 わたしも過去を思い出す時間を長引かせたくなかったので正直助かった。

 彼女の優しさなのか、単に興味がないだけなのか。どちらなのかはわからないけれど、どちらにしてもわたしには都合がよくて。適度に突き放すような距離感をいつも保ってくれる彼女のコミュニケーションは心地好かった。

 その後も雑談を交えつつわたしたちは料理を楽しんだ。

 結局、おかわりまでいただいてしまったわたしは、お腹をさすりながら満足感に浸っていた。こんなに食べたら明日の朝食は入らないかもしれない。日本から胃薬を持ってきていてよかったと思う。本当に。

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