世界に接続しました。

@hoitomi

世界に接続しました。

目が覚めた瞬間、胸の奥に冷たい雫が落ちたような感覚があった。


天井の模様が、ほんのわずかに違う。時計の音がしない。カーテンの向こう、窓を透かす空が濃く青い。鮮やかすぎるほどに。


──接続が、完了したのだ。


一志遥真(いちし・はるま)は、小さく息を吐いた。ベッドの縁に手をついて起き上がる。部屋の配置や空気の流れは、現実の自室とほとんど変わらない。けれど何かが、確実に違っていた。埃の匂いがない。光が柔らかい。まるで、この世界が静かに呼吸しているようだった。


接続には、その世界に対応する肉体が必要だった。もとの世界での体は、眠っている。

接続中、維持されている彼の身体は医療施設のベッドに横たわっている。


生きているが、動かない。


だがここでは、彼は解放された気分だった。


「好きな世界を選べる」というサービスは、十数年前から話題になっていた。厳密には“世界”といっても、全く異なる次元ではない。ほとんど地球と変わらないが、どこかが少し違う。


物価が違う世界。生態系が違う世界。宗教が存在しない世界。技術が100年進んだ世界──。


それぞれの、“理想に近い”世界。


当然ながら、人気のある世界は費用が高い。希望者は事前に面接を受け、収入に応じたランク分けをされる。そして、ランク内で提示された複数の世界から一つを選ぶ。


遥真が選んだのは、【やわらかい社会構造と都市調和型生態系】。現実と構造は似ているが、人の気質が穏やかで、街の景観に自然が多く取り入れられている世界だ。


玄関を開けると、真っ先に目に飛び込んできたのは、空の広さだった。


透明な雲が音もなく流れていく。電柱の代わりに、ガラスのようなソーラーパネルを内蔵した支柱が、ゆっくりと螺旋状に動いていた。自然な河川が多く流れ、家々の壁には、温室植物のような半透明の葉が茂り、風が吹くとさやさやと揺れる。


「……はあ……」


遥真は感嘆の吐息を漏らした。


会社では、彼は「いなくても困らない人」だった。中小企業の事務職。トラブル対応、資料整理、経費の処理。目立つことは一切ない。直属の上司は毎日忙しそうで、感謝の言葉もない。ミスなく働いても、評価されることはほとんどなかった。


それでも、誰より丁寧に仕事をこなしていた。無視されても、馬鹿にされても、怒鳴られても、感情を顔に出さず、黙々と働いた。給料は高くないが、貯金は人よりあった。それは、この世界に接続するための資金として使われた。


家では年老いた母と暮らしていた。

姉はすでに結婚して家を出ており、母はもう彼の人生に深く関わろうとはしなかった。会話は必要最小限。「あんたは静かでいい子ね」と言われるたび、胸がどこか痛んだ。


──そうしてようやく、選び取ったこの世界だった。


「やっと来たか」


聞き覚えのある声に振り返ると、そこにいたのは大学時代の友人、北条瑛人だった。


「……瑛人……」


「遅かったな。こっちはもう春二回目だぞ」


「……貯金、時間かかりました」


「それでも来れたんだから立派だよ。……行こう、案内するよ」


二人で並んで歩いた。通りの自販機には、見慣れない飲料が整然と並び、木々に知らない果物が実っている。


すれ違う人々が皆、微笑んでいた。


まるで、誰かに見られていなくても自然に敬意を持てる社会のようだった。


川辺に差し掛かると、魚が泳いでいた。赤い斑点を持つ銀色の魚。空は青く、水は澄んでいる。風に揺れる植物が優しく揺れた。


見惚れるほど、美しい。


「お前、ここで何をするつもりなんだ?」


瑛人の問いに、遥真はしばらく黙ってから口を開いた。


「……誰かと、ちゃんと話したいです。……名前を呼ばれて、笑って、返せるように……。今まで、それがずっとできなくて」


瑛人は何も言わず、ただ頷いた。風が二人のあいだを静かに通り抜ける。


遥真は思った。この世界には、まだ馴染まないこともたくさんあるだろう。完全な理想ではない。でも、それでも──ここでなら、またやり直せる気がした。


世界の風景は変わっても、自分自身が変われるかどうかは、これからだ。


ポケットの中の端末が震えた。現実に残した体のバイタルが安定していることを示していた。


いつか戻ることもできる。だが、今はまだ──ここにいたいと思えた。


遥真は空を見上げた。雲が、ゆっくりと流れていた。


──ようやく、本当に、目が覚めた気がした。

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