第29話「天の岩戸」
(どこだ?)
最初に岩之介が認識できたのは、そこが虚無の空間である事だけだった。
徐々に感知できる範囲が広がってくると、そこは自分の左半身より少し大きいだけの、酷く狭い領域だとわかった。右半身は、まるで無くなってしまった様に何も感じ取れない。
岩之介は、自分が漆黒の闇に閉じ込められているのを強く感じ取れた。だが、自分自身の存在を感じる事は難しかった。
(これは…自分?)
少しでも気を許すと、その漆黒の闇に希釈され、右側に向かって引き摺り込まれそうな感覚に襲われる。
(自分?存在?…)
岩之介は、その概念すら薄れ始める。
(自分の、自分以外の存在は?)
岩之介は、自分以外の気配を茫漠と探し始めた。
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「朱美の事件の時、技師長から聞き出したんだ!矢瀬乃木流・次元法術の事を!」
龍仁坊の割れ鐘の様な大声に、シンデンが驚いびくりとした。彩華は膝をついてシンデンの首に抱き着いたまま、真っ赤な顔をして意味不明の独り言を呟いている。
「え?」
「イワが…」
「私に?」
「ほ?…」
「聞けっ!オレの話!」
仁王立ちして怒鳴る龍仁坊を、彩華はきょとんとして見上げる。すると龍仁坊が、急に神妙な顔になって言った。
「先に言っておくが…」
「成功して岩之介が元に戻っても、戻らないものがある」
「戻らぬもの?」
惚けていた彩華が、だんだん真顔になる。
「記憶だ」
「次元法術は、別次元と何かを入れ替える副作用があるらしい。岩之助の場合、その代償は記憶の様だ」
「岩之助は、死にかける事で無意識に次元法術を使おうとしていたが、法力が足りないから発動しない。だが、発動しようとした代償として記憶を奪われる」
彩華の脳裏に、断片的にしか覚えていない岩之介の姿が蘇る。
「三年前、朱美は岩之助を救うために次元法術の全解放しようとした。だが法力が足りずに、自分の〈命〉を引き換えにしたんだ。それでも、救えたのは岩之介の左半身だけだ。あの右半身は、いまだに次元の彼方と繋がっているらしいが…」
「だから、岩之介を救う代償はアイツの記憶のはずだ。それも断片なんかじゃない。特技師の事や、オレやウズメっ子の事、自分が誰なのかも全部忘れる」
「忘れる?…全部?」
「お前に惚れていた事もだ…」
彩華は顔面蒼白になって、空中の岩乃介を呆然と見上げた。龍仁坊は、衝撃のあまり固まってしまった彩華を見据えた。
「でも、方法は実に簡単だ!」
「あるのか?救う方法が…」
彩華は、まだ呆然としながら龍仁坊の方を見上げる。
「ただし、これはウズメっ子にしかできねぇ」
「え?私?」
「岩之介の一番大切な人間の体組織をヤツの体内に入れる!それだけだ」
「入れる?たいそしき?」
「血でも汗でも何でもいい!それが、岩之介がこの次元に留まる事を選ぶ鍵になる!」
「?」
彩華は龍仁坊の話が理解できずにポカンとしている。
「これだ!コレ!」
そう言って龍仁坊は、彩華の口を指差した。
「接吻!『キッス』ってやつよ!」
「は?」
ポカンとしていた彩華の顔が、周りを照らせるほど赤くなっていく。
「せ、せせせせ!せっぷん~?」
「おうよ!口移しで、岩之介にお前の体組織・唾液か血液を入れちまえばいい!」
龍仁坊は、ひどく真面目な様子でキスをする動作を真似してみせた。
「な?カンタンだろ?」
「そ、そそそそそんな破廉恥なことが…できるかぁっ!」
彩華は目を丸くして、頭から湯気が立ちそうな程に赤くなって喚いた。
「じゃあ、このまま見殺しにするのか?」
「ううっ…」
二の句を告げない彩華を、龍仁坊が真剣に見つめている。
するとシンデンが、抱きついていた彩華の腕からするりと抜け出してその傍に立った。
「…シンデン?」
彩華をじっと見つめるシンデンが身を低くする。
「乗れ…というのか?」
彩華が呆然とシンデンに呟いた。
「イワの〈弁当〉だけでは、お前は十分に法力を回復できていないのに…」
「へへっ!相方の方が腹を括るのが早いなっ!」
龍仁坊がニヤリと笑う。
「お前も腹を括れ!ウズメっ子!」
しばらく俯いていた彩華は、やがてゆっくりと立ち上がった。その傍にはシンデンがぴたりと寄り添って立っている。
「やる!だが条件がある…」
彩華は少し顔を赤らめたまま、龍仁坊を睨みつけて唸った。
「見たら…殺すっ!」
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(自分以外の存在?)
岩之介の思考はそこで急停止する。
(その存在は、必要?)
〈必要ではない〉
それが最適解であるかの様に、その言葉は岩之介の意識に深く突き刺さった。
〈死を望んでいた自己が、他の存在を必要とするなど無意味な事〉
(そうか。これは〈死〉なのか)
不思議な安堵感と無力感に襲われた岩之介は、自己を繋ぎ止めていた力を緩めた。それは岩之介が無限遠との同化、つまり〈死〉を受け入れた瞬間だった。
繋ぎ止めていた自己という存在が無限遠の彼方に溶け出して、右側にズルズルと引き摺られていく。岩之介は抵抗することもなく、それをぼんやりと感じていた。
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シンデンは、その四つの足に稲光を纏いながら空中を駆ける様に飛んでいく。シンデンが操る〈
(一体どうなっている?)
岩之介の右半身は人の形をしておらず、無数の〈光の文字群〉が触手の様に生えて蠢いているのだ。左半身の岩之介は元の姿のままだったが、淡い光を放って意識を失っている。
「シンデン!」
彩華の叫びに即座に反応したシンデンが、岩之介に向かって加速した。
「何?」
その瞬間だった。蠢いていた〈光の文字群〉の触手が、一斉に彩華とシンデンに襲いかかってきた。
群がる触手を掻い潜りながら、シンデンは岩之介に接近する。だが迫る触手は、シンデンと彩華を取り囲む様にどんどん増え続けていく。
「イワ!私がわからぬのか!」
彩華が叫んだ刹那、触手が全方位から一斉に同時攻撃を仕掛けてきた。
(避けきれぬ!)
バシバシバシバシッ!
その時、鈍い音と共に迫る触手が切り裂かれた。龍仁坊が巨大錫杖を構えて、彩華の傍に浮かんでいる。
「ここは任せろ!お前は岩之介に取り付け!」
龍仁坊は、襲い来る触手の群れから彩華を守る様にして叫んだ。
「み、みみみ見たら殺すと言ったであろうっ!」
彩華は真っ赤になって叫ぶ。
「見ねぇから安心してやってこい!」
シンデンは、叫ぶ竜神坊から高速で離れると一気に岩之介に肉薄する。
「ここで良い。シンデン」
パチン!
そう呟くと、稲光が爆ぜてシンデンの背中から彩華が消えた。瞬間、彩華は岩之介の目と鼻の先に忽然と現れ、そのまま思いっきり抱きついた。それを見届けたシンデンが、高度を下げて地上に駆け降りていく。
「う?」
岩之介に抱きついた彩華は驚愕した。
なんと岩之介の右半身には何の手応えもなく、抱きついているのは左半身だけだったのだ。だが…
「か、硬い…」
岩之介の身体は、その名の通り岩の様に硬かった。彩華は岩之介の首に腕を回してしがみつく。
「イワ!イワ!聞こえないのか!」
いつもの様に、鼻が付くほど顔を寄せて彩華が叫んだ。だが、岩之介は目を閉じたまま微動だにしない。
「イワ!私だ!彩華だ!」
「返事をしろっ!」
彩華は声の限りに叫んだ。
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同化への抵抗をやめた岩之介は、小さな光の様な音が聞こえた気がした。
それは、自分を閉じ込めている狭い虚無の外側から聞こえてくる。
「…ワ」
「?」
聞いたことのある〈声〉だった。
「イワ!」
ガツン!
その〈声〉が、岩之介を包む〈殻〉にぶつかってきた。
(うるさい)
薄まっていく岩之介の意識が、不快感のせいでまた自己を認識してしまった。
(僕はもう、〈死〉を受け入れたんだ)
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「イワが私に言ったのだぞ!死んではならぬと!」
「そのお前が死を望むのか?」
彩華は、本当に石の様に硬く冷たい岩之介を強く抱きしめて絶叫する。
「自分の言った事に責任を取れ!」
「そうだイワ…責任を取れ!」
「私に惚れた責任を取れっ!」
「起きろ!起きろ!起きろっ!」
「起きて責任を取れっ!矢瀬ノ木岩之介ぇっ!」
彩華の叫びも虚しく、岩之介の顔は無表情のまま固まって何も反応しない。すると岩之介の右半身が、まだ形を残している左半身まで徐々に広がり始めた。
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ガンガンガンガン!
今度は連続で〈声〉が叩きつけられ始めた。
(しつこいなぁ)
岩之介は安眠を邪魔された気がしてうんざりする。それがまた自己を認識させてさらに不快感が増した。だが…。
(でも、この声は…)
遠く、記憶の彼方で小さな光が瞬く。
(さ・い・か…?)
その小さな光が輝きながら徐々に大きくなっていく。
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「!」
彩華は息を呑む。
〈光の文字群〉が、じわじわと岩之介の左半身を侵食していく。
「イワ!起きろ!イワ!」
叫びながら彩華は、岩之介の頭を胸に抱き抱える様にギュッとしがみついた。その胸の中に抱えた岩之介の頭が、徐々に小さくなるのが伝わってくる。
「イワ…」
気がつくと、涙が彩華の頬を伝って落ちていく。彩華は岩之介の頭を強く胸に抱いた。
「お前は三度も、身命を賭して私を救ってくれた」
「私の大切なシンデンまでも救ってくれた」
「そんな人間に初めて出会った」
「そんな男、他にはおらぬ」
「そんな男に…惚れぬ訳がなかろう?」
彩華の涙は、熱い雫となって岩之介の頭の上に止めどなく落ちていく。
「いやだ!…」
「イワが死ぬのは…いやだっ!」
彩華は硬い岩之介を抱き抱えたまま、その顔に自分の顔を寄せて囁いた。
「私を忘れてもいい…」
「生きてくれ、イワ!」
硬い石の様な岩之介の唇に、彩華は目を閉じて自分の唇を合わせた。
パリンッ!
彩華の目の前で、何かが割れる乾いた音がした。
目を閉じた彩華は、その感触で岩之介の顔から硬いものが剥がれ落ちていくのがわかった。すると突然、硬い石の様だった岩之介の唇が、温かく柔らかな感触に変わった。
(イワ…生きろ!)
彩華は自分の唇を強く押し付けた。すると岩之介の口が少し開く。彩華は少し乱暴に、岩之介に深く入り込む様に唇を合わせた。
次の瞬間、目も眩む程の閃光が岩之介と彩華を包み込んだ。それでも彩華は岩之介と重ねた唇を離さない。光はさらに輝きを増し、彩華の視界は真っ白に埋め尽くされていった。
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