第16話「半身」

 ー翌日ー


 喫茶ボンドの店内。“ランチ戦争”終了後の午後三時。夜の部までの休憩時間。

 お客の居ない、がらんとした店内の五番テーブル。岩之介と彩華は、各テーブルに置くためのナプキン折りに精を出していた。

 すると突然、大きな器を両手で持ったママさんがテーブルの脇に現れた。


「二人とも、おやつの時間よ!」

 両手に手袋の様な鍋つかみを着けたママさんは、重そうに大きな器をテーブルに置く。

「器が熱いから気をつけてね」

 縁の高いその器からは盛大に湯気が立ち、器からも熱が伝わってくる。焼き色がついた一面クリーム色の料理だった。

「ママさん、これって〈グラタン〉ですか?」

「さすがは岩ちゃん!物知りね。初めて作ったけど、上手くできたかしら」

 今日のおやつはグラタンという洋食らしい。それも特大のグラタン専用の皿で、軽く五~六人分はありそうな超大盛りだ。

(しかし、この量でおやつ?)

 岩之介は、その量に圧倒されている。

「ぐら、たん?」

 彩華は瞬時に目を輝かせてアツアツの器を見つめている。

「いただきますっ!」

 彩華は嬉しそうに合掌すると、スプーンを器に差し込んだ。


 ジリジリジリジリッ!

 その時、入口の方から電話のベルが聞こえてきた。

「あ。はいはいはい」

 ママさんは鍋つかみを外すと、ボンドの入口脇にある電話器に早足で向かって行った。

「ハフホフ!熱ひけろ、美味ひいっっ!」

 焼きたてのグラタンはとても熱い。だが彩華は一切怯まず、熱いグラタンを超高速でパクパクと口に運んでいる。

(口の中、絶対火傷してるよなぁ~)

 岩之介は、彩華の口の中が心配になった。だが、始終ハフハフしっぱなしの彩華は、熱くて涙目なのに幸せいっぱいの笑顔だ。

(まぁ、可愛いからいっかぁ!)

 ハフホフ顔の彩華に見惚れながら、岩之介が珈琲カップを口に運んだその時だった。

「イワはそれだけなのか?」

 突然、彩華が食べるのを止めて岩之介に尋ねた。

「うぶっ!」

 間隙を突かれた岩之介は、危うく珈琲を吹き出しそうになる。

「ケホッ!ぶへ?あ、うん…そうだけど」

 むせながらドギマギして答える岩之介に、彩華はグラタンをスプーンですくって岩之介の鼻先に突き出した。

「大怪我の後だ。食べないのは良くない!」

(わっ!か、間接キッスぅぅ?)

 グラタンがのっているスプーンを目の前に突きつけられ、岩之介は激しく慌てふためく。

「だ、だだだ大丈夫だって!僕、ちょっと食が細いだけで…」

「そういえば、イワが何か食べているのを見た事がないな?」

「へ?そ、そんな事ないよ!」


「岩ちゃ~ん!大学院から電話よぉ!」

 入口の方からママさんの声がした。

「あ、はい!いま行きますっ」

 岩之介は素早く席を立つと、逃げる様に入口の方へ行ってしまった。一人残された彩華は、岩之介に差し出したスプーンを自分の口に運びながら、その背中を目で追っている。


「岩ちゃんがどうかしたの?」

 五番テーブルに戻ったママさんが彩華に尋ねた。

「あ、あの、ママさん殿…」

 すると彩華が、少し言い難そうにママさんに言った。

「『殿』はいらないわよ。なあに?」

「イワは、何も食べないのですか?」

「え?」

「イワはいつも、あの珈琲という飲み物しか飲んでいない」

 彩華は、岩之介の飲みかけた珈琲カップを見つめていた。そんな彩華を、ママさんは少し驚いた様に見ている。

「まあ、珈琲が大好きなのは確かだけど、何も食べない訳じゃなのよ…」

 ママさんは何故かとても言いにくそうだ。

「食べる量は普通の大人の半分以下だし…毎日は食べないし。とにかく食が細いみたい」

(半分…?)

 その言葉を聞いた途端、なぜか彩華の脳裏に岩之介を治療した時の事がよぎった。瞬間、彩華の中で何かが小さく明滅する。

「あ、あの!関係があるのか分かりませぬが…」

 彩華は小声になって話し始めた。

「イワの治療をした時…法術の手応えが無かったのです…」

「身体の…右半分に!」

「!」

 ママさんは、今度は本当に驚いた様子でその場に立ち尽くしている。

「治癒法術が、イワの身体の左半分にしか入らなかった…」

「それにあの時…私を救ってくれた時の、イワの右腕は…」

「ママさん!イワの身体は一体?」

 彩華は、今まで見せた事がない不安そうな表情を浮かべている。

 テーブルの脇に立ったまま話を聞いていたママさんは、ゆっくりと彩華の向かい側の席に座った。そして、彩華の目を見つめて静かに語り始めた。


「解ってしまうのね…彩華さんみたいな優秀な法術師には」


「え?」

「彩華さんは、知っていた方が良いわね」

 そう微笑むと、ママさんは直ぐに真面目な顔になって話し始めた。


「全ては三年前…」

「岩ちゃんのお姉さん、朱美さんが亡くなった時に起こった」

「岩ちゃんを助けるために、朱美さんは矢瀬乃木一族の秘術を使ってしまった。その時、岩ちゃんの右半身は…無くなってしまったの」

「な、無くなった?」

 思わず声を上げた彩香は、岩之助を気にしながら慌てて口を押えた。

「岩ちゃんの右半身は本物の様に見えるけれど、実は何か別のものと入れ替わってしまったらしい。だから実体は左半身だけ」

 彩華は言葉もなくママさんの話に聞き入っている。

「身体が半分だから、食事もあまり必要ないし、夜もほとんど眠らない。それに成長も止まってしまったみたい」

 彩華の脳裏に、昨夜の全く眠くない様子の岩之介の姿がよぎった。

「でも…それでどうして生きて?…」

「矢瀬乃木一族の秘術〈次元法術〉が関係しているのは間違いないのだけれど」

「どうして生きているのか…本当の事は、いくら調べても誰にも解らないのよ」

「わ、解らない?」

 ママさんは、そこで少し俯いて言った。

「それに、この事を岩ちゃん自身は全く知らないの」

「えっ?」

「朱美さんが亡くなった時の事も、岩ちゃんは断片的にしか覚えていないみたい」

「そんな…」


「ママさん!電話ありがとうございました!」

 岩之介が五番テーブルに戻ってきた。ママさんが岩之介からは見えない様に、彩華に向かって人差し指を口に当ててみせた。彩華は慌てて口を閉ざす。

「頼んでいた分析が終わったそうなので、ちょっと大学院に行ってきます…って」

「あれ?彩華さん、どうしたの?」

 岩之介は驚いて尋ねる。戻ってきた岩之介の顔を見つめながら、彩華が両手で口を押えていたからだ。

「へ?あ、いや!何でもない!」

 すぐに我に返った彩華は、慌てて両手を口から離してドギマギしている。

(メチャクチャ何か隠している顔をしてるけど?…)

「岩ちゃん、急ぎの用事でしょ?お店は大丈夫だから、大学院に行ってらっしゃいな!」

 ママさんも急かす様に岩之介に言う。二人の不自然な様子に、岩之介は怪訝な面持ちをしている。

「え?あ、はい…すぐに戻ってきますけど…」

「あのママさん、何かありました?」

「あっ!そうだわっ!」

 するとママさんが、急に大声を上げて立ち上がった。


「どうせ外出するなら、彩華さんと二人で〈銀ブラ〉でもしてきたら?」

「は?」

「ぎんぶら?」

 岩之介と彩華が呆然と顔を見合わせている。

「たまには〈デェト〉も良いじゃない!」

「で、デェトオォォォォっ?」

 激しく動揺して卒倒しそうな岩之介の隣で、彩華は何のことかわからずポカンとしている。見事に話題をすり替えたママさんは、すかさず彩華に向かってニッコリ笑った。

「ねえ、彩華さん!何を着ていこうかしらね?」

「へ?」

 彩華は何が何やら全くわからない。取り乱している岩之介と、微笑むママさんの顔を交互に見て途方にくれている。

「彩華さんスタイル良いから、洋装がきっと似合うわよっ!」

 するとママさんは、事態を全く飲み込めていない彩華の手を取り、二階に引きずる様に連れて行ってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る