第9話「喫茶ボンド」

 銀座の表通りから離れた裏通り。そのとある辻に、ひっそりとその喫茶店はあった。


《喫茶ボンド》


 店名の書かれた趣のある看板とレンガ造りの外観は、周囲の景観に溶け込んで意外と目立たない。気をつけていないと素通りしてしまいそうな佇まいの店だった。

 職人肌のマスター亡き後、その夫人が切り盛りしているこの店は、珈琲好きの間では隠れた名店として知られていた。その店先には岩之介の二輪車が停めてある。実はボンドは、岩之助の下宿先でもあった。

 その入口、磨りガラスがはめ込まれた木製の扉に掛かった札が、午後の陽光に照らされて揺れていた。


《CLOSEDー本日閉店ー》


 うなぎの寝床のような細長い店内は、狭い通路を挟んで八つのカウンター席と、四人掛けのボックス席が五つ並んでいる。

 その一番奥にあるボックス席〈五番テーブル〉を、背の高い少女が陣取っていた。彩華である。


「んぐんぐ!もぐもぐ!もぐもぐ!んぐ!」


 彩華は器を次々に手に取っては料理を頬張り、猛烈な勢いで胃袋に収めている。その細っそりした体型には似つかぬ獰猛な食欲の前に、テーブルに所狭しと並べられた料理の器はどんどん空になっていく。

 テーブルを挟んだ向かい側の席には、ボンドのママさんと岩乃介が並んで座り、まるで〈大食い選手権〉の様な光景を見守っていた。

「彩華さん!まだ沢山あるから遠慮なく食べてね!私、よく食べる子って大好き!」

 ママさんは嬉しそうに微笑み、彩華が料理を平らげる様子を満足そうに見つめている。

 一方の岩乃介は、彩華の豪快な食いっぷりに圧倒され、チビチビと珈琲を啜っていた。

「この方は慈雷じらい彩華さいかさん。北の山奥から来たそうよ。それ以外は言いたくないそうだから、それでいいわよね?」

(それでいいんですか?ママさん?)

 ママさんの大雑把な紹介に、岩之介は心でツッコミを入れる。

「それにしても、岩ちゃんも隅におけないわねぇ!」

「へ?」

「こんな可愛らしいお嬢さんを連れてくるなんて!」

「え!…いや、むしろ僕は…連れて来て…もらった方、なのでは?」

 岩之介は珈琲を飲むふりをしながら、彩華の方を盗み見る。

(彩華さん、ていうんだ…)

 その幼さが残る整った顔の口元は、猛烈な食欲の証とばかりに料理で汚れている。

(でも、モリモリ食べてる姿も尊いぃ…)

 ほやほやと見惚れていた岩乃介を、彩華がギロリと睨み返した。


「うぐっ?」

 突然、彩華が苦しそうに胸をたたき始めた。料理を喉に詰まらせたらしい。

「まあまあ!ほら、お水」

 ママさんが差し出したコップを引ったくると、彩華は一気に水を飲み干した。

「はあ!はあ!」

 呼吸を整えると、彩華は再び岩乃介を睨んだ。あまりに鋭い眼光に、岩乃介も視線を外すことができない。

 ママさんが、そんな二人の様子に気づいてハッとなった。

「あら!まあまあごめんなさいね!おばあちゃんはお邪魔よね!」

 そう言うとそそくさと席を立つ。

「ごゆっくりぃ!」

 そう言うと岩乃介にウィンクをして、厨房の方に去ってしまった。

(ママさん、勘違いがひどすぎ…)

 岩之介は、彩華と二人でボックス席に取り残されてしまった。そして強烈な彩華の視線を受け止めたまま、岩之介はテーブルの脇に置いてある紙ナプキンに手を伸ばした。

「あ、あの…口」

 岩乃介は自分の口を指差して、彩華に紙ナプキンを差し出した。

「くち?口がどうし…わ!」

 彩華は口の周りを指で触ると、そこにべっとり付いたものを見て思わず声を上げた。

「も、もっと早く言わぬか!」

 岩乃介から紙ナプキンを引ったくると、彩華は顔を背けて口の周りを拭き始めた。


 パチン!

 小さな稲光が爆ぜて、彩華が一瞬で岩之介の隣に移動していた。

「え!」

 すると彩華は、むんずと岩之介の右手を掴んで自分に引き寄せる。

(えー?なになになになになになにっ!)

 固まる岩之介をよそに、彩華は岩之介の右袖をぐいぐい捲り上げ、顕になった右腕に顔を寄せる。そして、まじまじと観察し始めた。

「え、あ、あの…何、か?」

 彩華は、どぎまぎしている岩之介を完全に無視して、前腕をさすったり軽く叩いたりしてぶつぶつと呟いている。

「右腕、ちゃんと治っている…」

 やがてゆっくりと顔を上げると、岩之介を真っ直ぐに見つめて静かに言った。

「お前の身体…右側はどうなっている?」

「え?どうなってるって…」

「お前の右半身には、治癒法術が入らなかった!」

「みぎはんしん?ち、治癒法術?」

 すると彩華は、岩之助の目と鼻の先にぐっと顔を寄せた。

「それから!なぜ、私を助けた?」

「?」

「見ず知らずの私を。それも…身命を賭してまで!」

「なぜだ?…」

「そ、それは…」


(『一目惚れしたからですっ!』…とか言えるわけないっ!)


 顔を寄せたまま問い正す彩華の大きな瞳から、岩之介は目を逸らせずに言い淀むしかなかった。

 すると、さらに問い詰める彩華の話し方が少しゆっくりになってきた。

「それから…あの岩石の様な頭の…大男にも聞いたが…」

「お主は…団子屋ではなく…」

「?」

 彩華が少しフラフラし始めた。鋭かった眼光も、どこか目蓋が閉じそうな感じだ。

「MIKADOの護り人…『特技師』なの…か?」

(あれ?)

 とうとう彩華の言葉が途切れ途切れになってきた。

「一応、もうクビになりましたけど…」

 そう答える岩之介の目の前で、彩華の体の揺れ幅が大きくなり、瞳がだんだんと閉じられていく。

(え?彩華さん、もしかして…眠い?)

 彩華は、重くなった目蓋を開こうと必死に頑張っている。だが、それはかなり困難な事らしい。ぐらぁりと彩華の頭が大きく揺らいだ。

「く・び?…とは…いったい?…」

 パサッ!

 彩華がそう言った途端、岩之介の右腕が自由になった。同時に岩之介は、膝の上にふわりと柔らかな重さを感じる。

「え?」

 なんと彩華は、岩之介の膝の上に倒れ掛かかっていたのだ。頭を岩之介の膝に乗せて、スースーと寝息を立て始めている。


(え~~~っ?これわっ!ひ、ひひ、ヒ・ザ・マ・ク・ラァぁぁぁっ!)


 岩之介は声にならない叫び声を上げて、彩華を起こさない様に上半身だけでジタバタするしかなかった。

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