第5話 ブラックなんて言っていいんですか?
「ずいぶん驚かせちゃったみたいね。ごめんなさい」
「すこし……いえ、とてもびっくりしました」
「でしょうね。あっ、そうだ、まだ自己紹介してなかったわね」
そう言って、彼女は名刺を差し出してきた。
「私は星野結衣です。あなたは?」
その名刺は、先ほど青木さんからもらったものとはまるで違うデザインだった。
一羽の白い鳥が大きく羽ばたいている、繊細で美しいデザイン。
制作部課長 星野結衣
「綺麗な名刺……それに、課長? 偉い人……なんだ……」
美玖は、名刺のデザインに思わず見入っていた。
「もしもーし?」
その声に、ハッとして顔を上げる。
「あっ、わ、私、相原美玖です! よろしくお願いしますっ!」
とっさに頭を下げたその瞬間――
ゴンッ!
勢いあまって、机に頭をぶつけてしまった。
星野は一瞬、目を見開いたが、次の瞬間――
「ぷっ……あはははっ!」
マンガのようにお腹を抱えて、大笑いし始めた。
それはそれで、美玖にはちょっと傷ついた。
「相原さん、大丈夫?」と星野は笑いをこらえながら心配してくれた。
「だ、大丈夫です……」
恥ずかしさを隠すように、美玖は答えた。
「相原さん、いきなりなんだけど、聞いてくれる?」
「はいっ」
美玖は背筋を正して、短く返事をした。
星野は少し表情を引き締めて、言った。
「この会社、ちょっと変わってるの」
(ちょっとどころじゃないと思いますけど……)
今までのアルバイト経験と比べても、明らかに「普通」ではない。
きっと、どんなに鈍感な人でも気づくレベルだ。
「だから、ちょっと言いにくいことを、先に伝えておくわね」
星野はそう言って、ほんの少し前のめりになった。
「……ここ、ブラックよ」
声のトーンは抑えめだったが、はっきりと、そう言った。
(えっ……なんて? 今……なんて言ったの?)
耳を疑った。だって、会社の課長が、そんな言葉を口にするなんて思いもしなかったから。
「福利厚生は、ほぼなし。でも社会保険には入ってるわ。有給は忙しいときは取れないと思ってね。残業代も期待しない方がいい。納期が切羽詰まったときは、徹夜も当たり前。そして……ボーナスは、ほぼ出ないわ」
言葉の内容よりも、星野の目――肉食獣のように鋭い瞳が、美玖には恐ろしく感じられた。
思わず、手が小さく震える。
「脅かしすぎたかな……でも、全部本当のことよ。ウソはつきたくないから。最初に、きちんと伝えておきたかったの」
そして、星野は一呼吸おいて、問いかけた。
「あなたは、どうしてここで働こうと思ったの?」
美玖は、胸の奥から自然とこみ上げてきた言葉を、飾らずに口にした。
「クリエイティブな仕事ができれば、きっと自分が幸せになれるって、思ったからです!」
その言葉を言いながら、涙がにじんでいた。
星野はふっと表情を和らげて、優しく微笑んだ。
「合格よ。あなたがよければ、明日からでも来てほしいわ。まずは試用期間が3か月。その間は時給1,200円ね。その後のお給料は……これでどうかしら?」
そう言って、採用通知書を差し出してくれた。
決して悪くない条件だった。
「ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
今度は、ちゃんと机にぶつけないように、気をつけて頭を下げた。
星野はにこっと笑って、「一緒に仕事できるの、うれしいわ。全力でサポートするから、頑張ってね」と言いながら、手を差し出してくれた。
美玖は、両手でその手を握った。
その手は、驚くほど――あたたかかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます