第三章 宣告

診察室に座る健一と美咲の間に、重く冷たい沈黙が落ちた。テーブルを挟んで座る医師の顔は、先ほどからずっと硬いままだ。壁に掛けられた時計の秒針だけが、カチ、カチと、耳障りな音を立てていた。


「佐藤さん、深呼吸してください。落ち着いて、私の話を聞いていただけますか」


医師の声が、遠くから聞こえるように響いた。健一は美咲の手を強く握った。美咲の指先は、ひどく冷たかった。


医師が口にしたのは、これまで耳にしたことのない、聞き慣れない病名だった。いくつかの専門用語が続き、その説明は二人の理解の範疇を超えていた。しかし、その中でも、聞き取ってしまった言葉があった。


「進行が早く、現時点では、根治は非常に難しいと言わざるを得ません」


その言葉が、健一の頭の中で木霊した。根治が難しい。つまり、治らない、ということなのか。そんなはずはない。ひかりは、あんなに元気で、無邪気で、家族の太陽のような存在だ。そんなひかりが、病気で、治らないなんて。


美咲は、その場で全身から力が抜け落ちたように、ぐらりとよろめいた。健一が慌てて支える。美咲の目は、焦点が合わないまま虚空を見つめ、唇が震えていた。


「嘘……ですよね?先生、冗談、ですよね?」


美咲の声は、か細く、懇願するようだった。しかし、医師はただ首を横に振るだけだった。その動きが、二人の心を容赦なく打ち砕いた。


「これまでの検査結果と、ひかりちゃんの症状を総合的に判断した結果です。非常に稀なケースで、小児期に発症することはさらに稀な病気です」


医師は淡々と、しかし、その声には明らかな悲しみが滲んでいた。治療の選択肢、今後の見通し、そして、残念ながら、ひかりに残された時間の可能性についても、訥々と説明が続いた。


健一の耳には、医師の言葉がほとんど入ってこなかった。ただ、頭の中には、公園でシャボン玉を追いかけるひかりの笑顔が、はっきりと焼き付いていた。あの、無邪気な笑顔が、もう見られなくなるかもしれないという恐怖が、じわじわと健一の心臓を締め付けていく。


「どうして……どうして、うちのひかりが……」


美咲は、絞り出すような声で呟いた。その目に、みるみるうちに涙が溢れ、大粒の雫となって頬を伝った。美咲は、もう我慢できなかった。顔を覆い、しゃくり上げるような嗚咽を漏らし始めた。その小さな背中は、悲しみと絶望に打ちのめされ、震え続けていた。


健一は、そんな美咲の肩を抱き寄せた。自分も泣き出したかった。叫び出したかった。この現実を、全て夢だと言い聞かせたかった。しかし、父親として、夫として、ここで自分が崩れてはならないと、必死に感情を抑え込んだ。握りしめた拳は、爪が手のひらに食い込むほどだった。


診察室を出た後も、二人は言葉を交わすことができなかった。病院の廊下を歩く足取りは重く、まるで鉛をつけたかのようだった。外に出ると、いつの間にか空は鉛色の雲に覆われ、冷たい風が二人の体を吹き抜けていった。


家に着いても、沈黙は続いた。美咲はリビングのソファに座り込み、ただひたすら涙を流し続けた。健一は、ひかりが普段遊んでいるおもちゃや、リビングに飾られた家族写真を見るたびに、胸が締め付けられるような痛みを感じた。ひかりの笑い声が、幻のように聞こえてくる。


その夜、悠人を実家から連れて帰った時、ひかりは普段通り、兄に飛びついていた。


「お兄ちゃん、おかえり!ねえねえ、今日ね、絵本読んだの!」


無邪気に話すひかりの姿を見るたびに、健一と美咲の心は、激しい痛みと罪悪感に苛まれた。この小さな命が、どれほど残酷な運命を背負わされているのか。そして、自分たちは、この子に、これから何を伝えればいいのか。


その夜、健一は美咲を抱きしめ、背中をさすり続けた。美咲は健一の胸に顔をうずめ、泣き続けた。二人の間に、ただただ、深い絶望と、言いようのない苦しみが横たわっていた。

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