第7話:砂塵の彼方、命の灯火

 フロンティアの南門をくぐり抜けた先は、しばらくはまだ緑の気配が残る荒野だった。背の低い灌木や、乾燥に強い逞しい草がまばらに生え、道と呼べるほどの道はないものの、時折通る隊商が残した轍が、進むべき方角をぼんやりと示している。しかし、その風景も半日も歩けば一変した。


 植物はその姿を消し、地面は赤茶けた硬い土から、次第に細かな砂へとその性質を変えていく。風が運んでくる空気は、土の匂いから乾ききった砂の匂いへと変わり、肌を刺すように乾燥していくのがわかった。そして、最後の丘を越えた瞬間、カイの世界は黄金一色に塗り替えられた。


 アズラエル大砂漠。その圧倒的なまでのスケールと、生命を拒絶するような峻烈な空気に、カイは思わず息を呑んだ。


 見渡す限り、どこまでも広がるのは、風が作り上げた芸術品のような、緩やかに起伏する黄金色の砂丘の連なり。空は一点の曇りもなく、突き抜けるようなコバルトブルーに澄み渡っている。その蒼と黄金の対比があまりにも鮮やかで、非現実的なほどに美しかった。頭上では、巨大な火球と化した太陽が容赦なく大地を照りつけ、その熱で揺らめく陽炎が、遠くの景色を蜃気楼のように歪ませていた。


「ほう、これは……なかなかの絶景だな。前の世界のサハラ砂漠もかくや、といったところか」


 カイは強い日差しに眩しそうに目を細めながらも、その口元には抑えきれない笑みが浮かんでいた。この、全てを焼き尽くさんとばかりの苛烈さ。生命の存在を許さないという、自然の絶対的な意志。過酷な環境であればあるほど、彼の冒険心は燃え上がり、挑戦意欲をかき立てられる。これはもはや、ただの旅ではない。世界そのものとの対話なのだ。


 ***


 日中の砂漠は、まさしく灼熱地獄という言葉がふさわしかった。


 天に君臨する太陽は慈悲のかけらもない暴君で、その光は熱の槍となって降り注ぎ、あらゆるものの水分を奪い去っていく。足元の砂は鉄板のように焼け付いており、普通の革靴では数分で底が焼け焦げてしまうだろう。風はもはや涼を運ぶものではなく、熱したドライヤーの風のように肌の表面を撫で、体力を奪っていく。


 普通の人間であれば、この環境に数時間も身を晒せば、激しい喉の渇きと眩暈に襲われ、やがては脱水症状で命を落とす。しかし、カイにとっては大した問題ではなかった。


 彼の肉体は、この世界に来てからというもの、常に彼の意思に応じて最適化され続けている。魔力が体内の水分循環を完璧にコントロールし、発汗を最小限に抑えることで、体力の消耗を防いでいた。彼の体は、まるでこの過酷な環境に最初から適応していたかのように汗一つかかず、喉の渇きという生理現象すら、ほとんど感じることがない。ただ時折、気分転換に魔法でキンキンに冷えた純水を作り出し、それを水筒から喉に流し込む。その一瞬の冷涼感が、灼熱の中でのささやかな楽しみとなっていた。彼はまるで砂漠の幽霊のように、平然とした顔で次から次へと砂丘を越えていく。


 そして、夜になれば、砂漠はその表情を一変させた。


 地平線の彼方に太陽が沈み始めると、世界は壮大な色彩のショーを繰り広げる。空は黄金色から燃えるような赤、そして深い紫、最後には星々の輝きを際立たせるための、完璧なまでの濃紺のビロードへと姿を変える。その劇的な変化と共に、昼間の熱気は嘘のように急速に奪われ、気温は急降下していく。やがて、吐く息が白くなるほどの、骨身に染みる極寒が砂漠を支配した。


 しかし、この急激な温度変化も、カイにとっては問題外だった。彼は体内の魔力をわずかに巡らせ、まるで小さな太陽を体の芯に灯すかのように、常に快適な体温を維持していた。凍えることもなければ、寒さで震えることもない。


 夜の砂漠は、彼に最高の贈り物を与えてくれた。それは、満天の星空。

 空気中に塵や湿気がほとんどなく、街の明かりなど存在しないこの場所から見上げる夜空は、カイが前の世界で見てきたどんな星空とも比較にならないほど、壮大で、美しく、そして神々しかった。天頂を横切る天の川は、もはや淡い光の帯ではなく、無数のダイヤモンドダストを散りばめた、きらびやかな大河として明確に存在を主張している。時折、すうっと尾を引いて流れる星は一つや二つではない。まるで星の雨が降り注いでいるかのような光景に、カイはしばしば足を止め、マントにくるまって砂の上に寝転がり、その壮大な天体ショーに時を忘れて見入った。この世界には二つの月が浮かんでおり、一つは白銀に、もう一つは淡い青色に輝き、砂の大地に幻想的な影を落としている。


(昼は灼熱のサウナ、夜は貸し切りの天然プラネタリウムか。贅沢なものだな。これもまた一興だ)


 過酷さと美しさが同居するこのアズラエル大砂漠を、カイは心から満喫していた。


 ***


 もちろん、この砂漠はただ美しいだけの場所ではない。その過酷な環境に適応した、一癖も二癖もある危険な魔物たちの縄張りでもあった。


 ある日の昼下がり、カイがなだらかな砂丘を歩いていると、突如として前方の砂が不自然に盛り上がり、巨大な影が姿を現した。体長3メートルを超える、サソリ型の魔物「デザートスコルピオン」。陽光を反射して鈍く輝く黒褐色の甲殻は、並大抵の剣や矢を弾き返すほどの硬度を誇る。そして何より危険なのは、その背で鎌首をもたげる巨大な尾。その先端には、赤黒く変色した猛毒を仕込んだ巨大な針が、いつでも獲物の命を奪わんと待ち構えていた。


「グルルルァァッ!」


 デザートスコルピオンは威嚇の咆哮を上げると、巨体に見合わぬ俊敏さでカイに襲いかかってきた。巨大なハサミが空を切り、尾針が鞭のようにしなってカイの頭上を狙う。


 しかしカイは、その猛攻を前にしても表情一つ変えなかった。彼はまるで流麗な舞を踊るように、最小限の動きで攻撃をいなし、紙一重で見切っていく。その動きは、もはや戦闘というよりは、猛獣と戯れる調教師のようだった。


 彼はただ避けるだけではない。その超人的な動体視力と分析能力で、デザートスコルピオンの動き、甲殻の構造、攻撃の癖を瞬時に見抜いていた。


(なるほど、甲殻は頑丈だが、関節の継ぎ目は比較的柔らかい。尾の攻撃は強力だが、予備動作が大きい。狙うなら…そこか)


 数合、攻撃をいなした後、カイは動いた。尾針が空を切った一瞬の隙を突き、滑るように敵の懐へ潜り込む。そして、人差し指の先に凝縮したごく微量の魔力を、針のように鋭くして放った。その魔力の一撃は、甲殻のわずかな隙間、脚の付け根にある神経節を寸分の狂いもなく正確に貫いた。


「ギッ!?」


 悲鳴ともとれない短い断末魔を上げ、デザートスコルピオンの巨体はぴたりと動きを止め、そのまま崩れるように砂の上へと倒れ伏した。


 カイは倒れた魔物に近づくと、その尾針を興味深そうに観察し始めた。魔法で毒液の成分を分析し、その作用を頭の中でシミュレートする。


「この毒は強力な神経系ブロッカーか。即効性だが、持続時間は短い。少量なら筋肉弛緩剤として、逆に濃度を高めれば…ふむ、使い方によっては面白い薬になりそうだ。素材として少し頂いていくか」


 彼はそう呟きながら、手際よく毒袋といくつかの素材を剥ぎ取ると、何事もなかったかのように再び歩き始めた。


 またある時は、さらに劇的な出会いが待っていた。

 何の前触れもなく、カイが立っていた足元の砂が、突如として巨大な擂り鉢状に陥没し始めたのだ。中心に向かって、滝のように砂が流れ落ちていく。そして、その陥没の中心から、巨大な環状の口を持つ、伝説の魔物「サンドワーム」が姿を現した。


 その全長は数十メートルにも及び、胴体の直径だけでも数メートルはあるだろう。環状に並んだ無数の牙が並ぶ口は、もはや生物のそれというより、地獄への入り口そのものだ。サンドワームは咆哮と共に、獲物であるカイを砂ごと丸呑みにしようと、その巨大な顎を広げて襲いかかってきた。


「おお、これはまた、大物が出たな!」


 常人ならば絶望に叫び声を上げるであろうその光景を、カイは楽しげに、まるで珍しい生き物を見つけた子供のような目で見上げていた。彼はあえて飲み込まれる寸前までその場に留まり、サンドワームの口内の構造、粘液の質、そして体内の温度までを瞬時に感知する。


 そして、巨大な口が閉じられ、視界が完全に闇に包まれる直前、彼は指を鳴らした。


 ごく小規模な、しかし指向性と破壊力を極限まで高めた魔力の爆発が、サンドワームの口内で炸裂する。それは外部にはほとんど影響を与えず、内部の柔らかい組織だけを的確に、そして完全に破壊し尽くす、神業的な魔力制御の賜物だった。


 数秒後、サンドワームの巨体は内側からずたずたに引き裂かれ、痙攣しながら絶命した。


 おびただしい量の体液を浴びながら、その死骸から姿を現したカイは、空を見上げて呑気に呟いた。


「いやぁ、口の中は意外と居心地が悪くないな。もっとも、長居はごめんだが」


 そんな不謹慎な感想を漏らしながら、彼は魔法で体液に汚れた服や体を一瞬で浄化し、清潔にする。これらの戦闘は、カイにとってはもはや命のやり取りではない。自身の規格外の力を、この世界の常識に合わせるための微調整と、この世界の生態系を肌で学ぶための、最高の「戯れ」となっていた。


 ***


 そんな旅が、数日間続いた。


 カイは地図も持たず、ただ気の向くままに、砂漠の奥へ、奥へと進んでいた。単調にも思える砂の海だが、注意深く見ればその表情は刻一刻と変化し、決して飽きることはない。


 そして時折、カイはその黄金の海の中に、過去の痕跡を見つけることがあった。

 強風で砂が飛ばされ、一時的に姿を現した、風化してひび割れた巨大な石柱の残骸。

 明らかに人工物と思われる、巨大な建物の礎石の跡。

 それらは永い時の流れの中でほとんどが砂に埋もれ、かつての栄華を偲ばせるものはほとんど残っていない。しかし、カイはそれらを見つけるたびに足を止め、考古学者のように丹念に観察した。


 石材に残る微弱な魔力の残滓から、かつてここに満ちていたであろうエネルギーの種類を読み解く。風化しかけた石の表面に、かろうじて残る古代文字らしきものを指でなぞり、その意味を推測する。


(ドワーフの直線的な様式でも、エルフの曲線的な様式でもない。もっと古い、根源的な力を感じさせる造りだ。この砂漠には、俺の知らない、何か大きな秘密が眠っているのかもしれないな…)


 その予感は、彼の冒険心をさらに強く刺激した。


 そんなある日の午後、事件は唐突に起こった。

 それまで穏やかだった空の様子が、まるで世界の終わりを告げるかのように急変したのだ。地平線の彼方に、空と大地を繋ぐ巨大な黄土色の壁が出現し、それが猛烈な勢いでこちらに向かって迫ってきた。

 砂嵐だ。それも、これまで経験したことのない、最大級の。


「おっと、これはさすがに、本格的にまずいかもしれないな」


 カイは即座に周囲を見渡し、身を守れそうな場所を探した。幸い、近くに小高い岩山があった。彼はすぐにその風下の岩陰に身を寄せ、ギルドで購入した厚手のマントで全身をすっぽりと覆った。


 直後、ゴーゴーという耳をつんざくような風の咆哮と共に、世界は完全に黄土色の砂塵に支配された。視界はゼロになり、一メートル先も見えない。叩きつけられる砂粒が、マントの上からでも肌に痛みを感じさせる。太陽の光も完全に遮られ、まだ昼間だというのに、あたりは不気味な薄闇に包まれた。方向感覚も、時間感覚も、この砂の暴力の中では意味をなさない。


 どれほどの時間が経過しただろうか。

 カイが岩陰で、この自然の猛威が少しでも弱まるのをじっと待っていると、ふと、彼の超人的な感覚が、風の唸りの中に異質なものを捉えた。


 それは音ではなかった。気配だ。

 微かな、しかし確実に何かが動くような、生命の気配。


 そして、彼は奇妙な事実に気づく。

 自分の周囲は依然として猛烈な砂嵐が吹き荒れているにもかかわらず、風上のある一点だけ、ほんのわずかだが砂塵が薄くなっているように見えるのだ。まるで、見えない何かの力が、その一点を中心に風と砂を避けているかのように。


(何だ…? 結界か? いや、それにしては弱すぎる。あそこだけ風が避けているのか?)


 その不可解な現象に、カイの好奇心が強く刺激された。彼はマントの隙間から目を凝らし、その砂塵の薄い場所を凝視した。


 砂塵が渦巻くその向こう、数十メートルほど先に、小さな黒い影がうずくまっているのが見えた。

 最初は岩か何かかと思った。しかし、その影は時折、か細く身じろぎしているように見える。


(人か…? こんな場所に、この嵐のまっただ中で?)


 ありえない。この状況で生身の人間が生きているはずがない。だが、あの影は確かにそこに存在し、そして風を歪めていた。


 カイの胸に、これまで感じたことのない、わずかな緊張と、それを上回る抑えきれないほどの好奇心が湧き上がった。それは、強敵と対峙する時の高揚感とは違う。未知の謎、世界の根源に触れるかもしれないという、知的な興奮だった。


 彼はマントを体にきつく引き締め、その謎の人影に向かって、一歩を踏み出した。

 一歩、また一歩と、砂に足を取られながらも、確かな足取りで進んでいく。


 砂嵐の中心で、何かが彼を待っている。

 そんな、確信にも似た予感がした。


「何か大きな運命が動こうとしている…そんな予感がするな」


 カイは独りごち、その唇に挑戦的な笑みを浮かべた。

 慎重に、しかし迷いなく、彼は砂塵の彼方へと進んでいった。その先に待つものが、災厄か、あるいは奇跡か。どちらに転んでも、彼にとっては最高の「楽しみ」でしかないのだから。



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