第5話:冒険者ギルド『自由の翼』
夜の喧騒が嘘のように静まり返った「木の盾亭」の一室で、カイは心地よい目覚めを迎えた。窓の隙間から差し込む朝の光が、部屋の空気中に舞う微かな埃を黄金色の筋として映し出している。鳥のさえずりが遠くから聞こえ、新しい一日の始まりを告げていた。
「木の盾亭」で一晩を過ごしたカイは、すっかり気力も体力も回復していた。異世界のベッドは、藁を詰めたマットレスの上に固い布を敷いただけの簡素なもので、最初は背中が痛むかと思ったが、慣れてしまえば存外寝心地が良かった。沈み込みすぎない適度な硬さが、逆に旅で疲れた身体の芯をしっかりと支えてくれる。昨夜の美味な食事と、深い眠りのおかげで、全身に活力がみなぎっているのがわかった。感覚は研ぎ澄まされ、窓の外から流れ込むひんやりとした朝の空気に含まれる、土と緑の匂いをはっきりと感じ取ることができた。
階下からは、すでに活動を始めた女将が立てるであろう、食器の触れ合う音や、釜に火を入れる音がかすかに響いてくる。この宿屋もまた、フロンティアという街の心臓の一部として、力強く鼓動を始めている。
カイはベッドから起き上がると、手早く身支度を整えた。特に着替える服があるわけでもなく、昨日と同じ軽装だ。顔を洗い、髪を手櫛で整えるだけの簡単な支度。しかし、それだけで気分はずっと引き締まった。
一階に下りると、女将がちょうどカウンターを磨いているところだった。カイの姿に気づくと、昨夜と変わらない快活な笑顔を向けてくる。
「よお、旅の人。よく眠れたかい?」
「ああ、おかげさまで。世話になった」
「そりゃよかった。朝食はいるかい? 焼きたてのパンとスープがあるよ」
「ありがたいが、今日はもう行くよ。街を見て回りたいんでね」
カイはそう言って、宿代と昨夜の食事代をカウンターに置いた。女将はちらりとその金額を確認すると、満足げに頷いた。
「そうかい。まあ、何かあったらいつでも戻っておいで。美味いエールを用意して待ってるからさ。あんたみたいな静かで気前のいい客は大歓迎だよ」
その言葉は、この街で生きていく上でのささやかな、しかし心強いお守りのように感じられた。カイは女将に礼を言い、再び「木の盾亭」の重い扉を押して、フロンティアの朝の光の中へと足を踏み出した。
外の空気はひんやりと澄み渡り、深呼吸すると肺が浄化されるような心地がした。夜の間に降ったのか、石畳はしっとりと濡れ、朝日を浴びてきらきらと輝いている。人々が道を清めるために撒いた水の名残だろう。パン屋の前を通りかかると、香ばしい小麦の焼ける匂いが漂ってきて、思わず腹が鳴った。まだ人影はまばらで、活動を始めたばかりの街は、昼間の喧騒が嘘のような穏やかな表情を見せている。しかし、その静けさの下には、巨大な機械が始動する前の、確かなエネルギーの充填が感じられた。
今日の目的地は、昨日バルツから聞いた冒険者ギルド「自由の翼」のフロンティア支部だ。この街で生きていくためには、情報と、そして何より立つ瀬が必要になる。冒険者という身分は、流れ者のカイにとって都合のいい隠れ蓑であり、同時にこの世界の理(ことわり)を肌で感じるための絶好の舞台となるだろう。情報収集と、あわよくば面白い「仕事」――カイにとっては新たな「楽しみ」の機会――が見つかるかもしれない。そんな期待が、彼の足取りを軽くしていた。
女将に聞いた道を頼りに、街の中心部へと向かう。道すがら、徐々に人の往来が増えていく。市場へ向かう荷車を引く商人、鍛冶場へ向かうドワーフの職人、そしてカイと同じように、腰に剣や杖を携えた冒険者らしき者たちの姿もちらほらと見受けられた。彼らの顔には、一日の始まりに対する期待や決意、あるいは昨夜の酒の疲れなど、様々な感情が浮かんでいる。
やがて視界が開け、街で最も大きな中央広場に出た。広場の中央には美しい彫刻が施された噴水があり、清らかな水を絶えず吹き上げている。その水しぶきが朝日に反射して、小さな虹を作り出していた。広場を囲むように、市庁舎や大神殿といった、街の重要施設が立ち並んでいる。その中でも一際、存在感を放つ建物がカイの目に飛び込んできた。
ギルドの建物は、中央広場に面した一等地という、これ以上ない場所に威風堂々と建っていた。周囲の優美な市庁舎や荘厳な神殿と比べると、その意匠は無骨で実用的だったが、一回り大きく、何よりも頑健な石造りだった。フロンティアの城壁と同じ、巨大な石材を寸分の狂いもなく組み上げたその建物は、それ自体が要塞としての機能も果たせるように設計されているのだろう。風雨に晒され、ところどころ黒ずんだ壁には、過去の戦いでついたであろう剣や魔法の痕が無数に刻まれており、それがかえってこの建物の歴戦の風格を高めていた。
正面に掲げられた「自由の翼」という名が刻まれた大きな木製の看板には、翼を広げたグリフォンの意匠が勇ましく、そして精緻に彫り上げられている。そのグリフォンの鋭い眼光は、まるでギルドに出入りする全ての者の覚悟を問うているかのようだった。
その重厚な両開きの扉は、ひっきりなしに冒険者たちを吸い込み、また吐き出している。中からは、様々な声が混じり合った活気のある喧騒が、途切れることなく漏れ聞こえていた。それはまるで、巨大な生き物の呼吸のようにも感じられた。
(ふむ、なかなか立派な構えじゃないか。これだけの人間が集まる場所なら、強者との出会いも期待できそうだ)
カイは口元に楽しげな笑みを浮かべると、人の流れに乗って、その重い扉に手をかけた。ずしりとした手応えを感じながら、扉を押し開ける。
瞬間、昨日「木の盾亭」で感じたものとは比較にならないほど濃密な熱気が、カイの全身を包み込んだ。
内部は広々とした巨大なホールになっており、吹き抜けの高い天井からは、いくつもの魔晶石ランプが吊り下げられている。朝だというのに、窓からの光だけでは足りないほど広大な空間を、それらのランプが放つ淡い光が照らし出し、薄暗いながらも活動に十分な明るさを保っていた。太い木の梁が縦横に走り、天井を支えている。その梁には、討伐された巨大なドラゴンの顎骨や、伝説的な冒険者のものとされる武具が飾られていた。
ホールを満たすのは、人々のざわめき、剣や鎧が擦れ合う金属音、羊皮紙をめくる乾いた音、そして酒の匂い、汗の匂い、微かに漂う血と鉄の匂い――それら全てが混じり合った、まさに冒険者たちの拠点といった特有の雰囲気だ。この場所にいるだけで、否応なく気持ちが高ぶってくる。
カイは入り口で一瞬立ち止まり、その混沌とした空間を興味深く観察した。
右手の壁一面には、依頼書がびっしりと隙間なく貼られた巨大な掲示板があった。その前には、様々な種族、様々な出で立ちの冒険者たちが黒山の人だかりを作り、熱心に依頼書の内容に見入っている。真剣な表情で仲間と相談する者、指で報酬の額をなぞりながら計算する者、自分の実力と依頼の難易度を天秤にかけている者。彼らの視線は、生活の糧を得るための真剣さに満ちていた。
左手には、昨日訪れた「木の盾亭」よりもさらに大きな酒場が併設されている。長いカウンター席と、いくつものテーブル席は、朝だというのに多くの冒険者で賑わっていた。昨夜の討伐成功を祝して朝から祝杯をあげるパーティ、次の依頼に向けて腹ごしらえをする軽装の斥候たち、あるいは依頼に失敗してやけ酒を呷る屈強な戦士。彼らの交わす会話は、この世界の生々しい情報で満ちている。
そして、ホールの最も奥には、ずらりと長いカウンターが並んでいた。そこでは、ギルドの制服を身につけた職員たちが、次々と訪れる冒険者たちの対応に忙殺されている。報告書の受理、報酬の支払い、依頼の斡旋、情報の提供。その動きは非常に手際が良く、無駄がない。彼ら職員もまた、冒険者たちを支えるプロフェッショナルなのだということが一目でわかった。
(なるほど、ここがこの街の、いや、この世界の縮図か)
カイはまず、情報収集のために右手の依頼掲示板へと足を向けた。人垣の後ろから、壁に貼られた無数の羊皮紙を眺める。羊皮紙は新しいものから、端が擦り切れて黄ばんだものまで様々で、書き手の筆跡もインクの色もバラバラだ。緊急性の高い依頼には、赤い蝋で封が押されている。
その内容は、実に多種多様だった。
「薬草『月雫草』の採取依頼。夜間にのみ崖に咲く希少な薬草。報酬300ギル。採取場所の地図あり」
カイは頭の中で、月明かりの下、断崖絶壁に咲く幻想的な花の姿を思い浮かべた。
「近郊の森に出没するゴブリンの群れの討伐。繁殖期に入り、近隣の村への被害が拡大中。1体討伐につき50ギル。リーダー格は別途報奨あり」
これは新人冒険者の登竜門といったところだろう。多くの若者がこの依頼を指さして仲間と話し合っている。
「旧ドワーフ鉱山の廃坑調査と地図作成。内部構造は不明、多数のアンデッドモンスターの目撃情報あり。踏破・地図完成時の成功報酬5000ギル。危険度B」
これは骨の折れる仕事だ。熟練のパーティでなければ生きては帰れないだろう。
「王都行き隊商の護衛。フロンティアから隣街ミルフィードまで。期間約5日間。1人1日1000ギル。腕利きの戦士、斥候を募集。面接あり」
これは高額だが、拘束時間が長い。腕に覚えのある者たちが、真剣な顔つきで詳細を読み込んでいる。
様々な難易度の依頼が、羊皮紙に書かれて所狭しと貼られていた。
中には、「我が家の愛猫『タマ』の捜索。白毛、青い瞳。好物は魚。報酬は心のこもったお礼と銀貨5枚」といった微笑ましいものから、「呪われた古城の調査。侵入した者は誰一人として戻らず。内部で何が起きているのかを報告せよ。生死不問。成功報酬、金貨100枚」などという、明らかに命の保証がない物騒なものまであった。
(なるほど、実に多種多様だ。人々の生活に根差した小さな悩みから、国家レベルの危機まで、あらゆる『願い』がここには集まっているわけか。面白い。今の俺の実力なら、どれもこれも赤子の手をひねるようなものだろうが……)
カイは自分の規格外の力を自覚している。だが、だからこそ、この世界の人々が何に悩み、何を求め、何に命を懸けているのかを、この掲示板を通して知ることは非常に興味深かった。それは、神の視点から人間を観察するのに似た、一種の愉悦を彼に与えた。
依頼を一通り眺めて満足したカイは、いよいよ本題である冒険者登録のため、カウンターへと向かった。いくつもあるカウンターの中から、比較的列が短く、「新規登録・相談窓口」という札が下がっている場所を選ぶ。
カウンターの向こうには、栗色の髪をすっきりとポニーテールにまとめた、快活そうな若い女性職員が座っていた。そばかすの散った頬、ぱっちりとした緑色の瞳、きびきびとした立ち居振る舞いが、彼女の利発さを物語っている。ギルドの機能的な制服をきちんと着こなし、胸元には「受付:リリア」と彫られた真鍮の名札がつけられていた。彼女は山積みになった書類と格闘していたが、カイがカウンターの前に立つと、すぐにその気配を察して顔を上げた。
「すみません、冒険者登録をしたいのですが」
カイが声をかけると、リリアは一瞬、カイの姿を検分するように目を細めた。腰に武器もなく、高価な装備を身につけているわけでもない。しかし、その佇まいには奇妙な落ち着きと自信が満ちている。彼女はこれまでに何百、何千という冒険者志望者を見てきたが、カイのような不思議な雰囲気を持つ人間は初めてだった。それでも彼女はすぐにプロの笑顔を浮かべると、にっこりと微笑んだ。
「はい、いらっしゃいませ! 冒険者ギルド『自由の翼』へようこそ。新規登録ですね。承知いたしました」
彼女は手元の書類を脇に寄せると、引き出しから新しい登録用紙とペンを取り出した。
「では、こちらの用紙にご記入をお願いします。お名前、年齢、ご出身地、それから得意な武器や魔法などですね。ギルドとしては、可能な限り正確な情報をいただけるとランク判定や依頼の斡旋がしやすくなるので助かりますが……」
そこでリリアは言葉を区切り、悪戯っぽく片目をつぶって声を潜めた。
「まあ、多少の脚色や見栄は…皆さんやることですから。自分の命に関わることですしね」
その親しみやすい態度に、カイは思わず苦笑した。このギルドは、ただ堅苦しいだけの役所ではないらしい。
(名前は…カイでいいか。下手に偽名を使っても面倒なだけだ。年齢は…この身体の見た目なら20代前半くらいか。22歳とでもしておくか。出身地は…これが一番困るな。『地球』とか『日本』と書いても誰も理解できんだろうし、『神様の気まぐれ』とでも書くわけにもいかんな)
カイは少し考えた末、出身地の欄には「東の果ての、今はもうない村」と、曖昧かつそれらしい嘘を書き記した。得意な武器の欄には、正直に「特に無し」と書く。あらゆるものを武器にできるし、素手で十分だからだ。魔法の欄は、昨日の宿屋での内省を思い出し、少し考えてから「少しだけ」と、最大限に謙遜(?)した表現を書き添えた。
ペンを置き、書き終えた用紙をリリアに渡す。彼女は「ありがとうございます」と言ってそれを受け取ると、滑らかな仕草で内容に目を通し始めた。
「カイ様、ですね。拝見しました。出身地は…大変でしたね。この世界は厳しいですから……」
リリアはカイが書いた「今はもうない村」という記述に、一瞬同情的な表情を浮かべたが、すぐに仕事の顔に戻った。
「さて、カイ様。冒険者登録には、簡単な実力測定を受けていただく必要があります。これは、初期ランクを判定し、カイ様の安全とギルドの信用のために適切な依頼を受けていただくためのものですので、ご協力ください」
「わかった。それで、どうすればいい?」
「測定方法は二つございます。一つは、あちらの模擬戦場で、訓練用のゴーレムを一体倒していただく方法。もう一つは、こちらの魔法訓練場で、的を破壊していただく方法です。どちらがよろしいですか?」
リリアが指し示した先には、剣戟の音が響く区画と、時折魔法の光が瞬く区画があった。
「どちらでもいいが…手っ取り早い方がいいかな」
ゴーレムを相手に立ち回るのも面白そうだが、今はまず登録を済ませたい。
「でしたら、魔法の的でいかがでしょう? 魔力の質と量、そして最も重要な制御力を見させていただきます。カイ様は魔法が『少しだけ』お得意とのことですので、ちょうどいいかもしれませんね」
リリアはそう言うと、席を立ち、「こちらへどうぞ」とカイを促した。彼女が歩き出すと、ポニーテールが楽しげに揺れる。カイは彼女の後に続いて、ホールの喧騒を抜け、ギルドの奥にある訓練場へと案内された。
訓練場は、ホールの喧騒が嘘のように静まり返っていた。いや、静寂ではない。剣と剣が打ち合う甲高い音、肉体を鍛える荒い息遣い、呪文の詠唱、そして着弾の衝撃音。それらが混じり合っているにもかかわらず、そこには一種の緊張感と集中力が満ちており、ホールとは質の違う静けさを感じさせた。
だだっ広い空間は、土と石でできた床の上に、いくつかの区画線が引かれて明確に分けられている。
一角では、重装備の剣士たちが火花を散らしながら模擬戦を繰り広げている。別の区画では、弓兵たちが数十メートル先の的に次々と矢を命中させていた。そして、カイたちが向かう先には、ひときわ頑丈そうな石壁の前に、いくつかの人型の的が設置された魔法訓練区画があった。
周囲には、訓練の合間に休憩していたのか、数人の冒険者たちが壁際で汗を拭っていた。彼らはギルド職員であるリリアと、見慣れない軽装の男(カイ)が訓練場に入ってきたことに気づき、興味深そうにこちらに視線を向けている。その視線には、「また新人が来たのか」「あの軽装で何ができるんだ?」といった、好奇心と若干の侮りが混じっていた。
リリアが案内したのは、その魔法訓練区画の中でも、特に頑丈そうな金属製の的がぽつんと一つ設置された一角だった。その的は過去の訓練でついたであろう無数の傷や凹みを持ち、この場所で多くの魔法使いたちが自らの力を試し、そして壁にぶつかってきた歴史を物語っていた。
「では、カイ様。あちらの的に、何か得意な魔法を一つ、放ってみてください。ランク判定のためですので、威力は問いませんが、ご自身の安全が確保できる範囲で、できる限りの力でお願いします」
リリアはそう言うと、カイから数メートル離れた、安全な場所へと下がった。その真剣な眼差しは、カイの実力を正確に見極めようとしている。
(できる限りの力、ねぇ……)
カイは内心で大きくため息をついた。この世界の物理法則や魔法の威力の基準が、まだ全く掴めていない。この前、森の中で無意識に放った力は、小山一つを地形ごと変えてしまった。あの二の舞は絶対に避けたい。ギルドの建物を、登録初日にして半壊させるわけにはいかない。
(あの時の反省を活かさなければ。問題は魔力の出力だ。イメージ、イメージが大事だ。体内に渦巻くこの膨大なエネルギーの奔流から、ほんの一滴だけを汲み出す。そうだ、針の先で、ほんの少しだけ水面に触れるような…いや、それも危険か。米粒ほどの魔力でさえ、あの結果だ)
カイは意識を内面に集中させた。彼の内なる世界には、まるで銀河のように膨大な魔力が渦巻いている。その中心から、慎重に、細心の注意を払いながら、一本の細い魔力の糸を引き出す。その糸の先端を、さらに意識の力で圧縮し、絞り込んでいく。
(芥子粒だ。ごく小さな、芥子粒一つ分の魔力でいい。それなら、さすがに常識的な威力に収まるだろう)
放つ魔法は、誰でも使えるごく基本的な攻撃魔法である「ファイアアロー」に決めた。これならば、たとえ威力が高く出たとしても、「火の矢」という範疇に収まるはずだ。周囲で見ている冒険者たちも、その選択に「なんだ、初級魔法か」と少し興味を失ったような顔をしている。
カイはゆっくりと息を吸い、的を見据えた。そして、人差し指をすっと前に向ける。
「いくぞ――ファイアアロー」
カイが軽く、囁くように呟いた。その言葉が、引き金となった。
彼の指先に凝縮されていた芥子粒ほどの魔力が解放され、細く、鋭く、まるで赤い針のような炎の矢となって迸った。それは音もなく、空気抵抗など存在しないかのように、一直線に空間を切り裂いて金属の的へと飛翔していく。
見学していた冒険者の一人が、「なんだ、あのショボい魔法は…」と欠伸を噛み殺した。リリアもまた、そのあまりに小さな魔力の輝きに、少し拍子抜けしたような表情を浮かべていた。
炎の矢は、瞬きする間に的の中心に吸い込まれるように着弾した。
音は、なかった。
――次の瞬間。
チュドォォォォォォォンッッッ!!!
世界から、音が消えた。そう錯覚するほどの轟音が、訓練場全体を、いや、ギルドの建物そのものを根底から揺るがした。
耳をつんざく爆音と同時に、金属製の的があった場所が、太陽が生まれたかのような眩い閃光に包まれる。それはもはや「矢」というより「戦略級の攻城兵器」、「槍」というより「火山の噴火」とでも言うべき、純粋な破壊の奔流だった。
金属の的は、着弾と同時に跡形もなく蒸発し、融解した金属片が閃光の中で霧散した。だが、破壊はそこで終わらない。ファイアアローが内包していたエネルギーは、背後にあった分厚い石壁にまで到達し、そこを中心に巨大なクレーターを穿ち、放射状に無数の亀裂を走らせた。
凄まじい衝撃波が、嵐のように周囲に吹き荒れる。
「うわぁぁっ!?」
「な、なんだぁっ!?」
見学していた冒険者たちは、なすすべもなく吹き飛ばされ、悲鳴を上げて床を転がり、尻餅をついた。巻き上げられた土埃と衝撃で、訓練場は一瞬にして視界不良に陥る。
カウンターで業務をしていたリリアも、その爆風に煽られてよろめき、必死に近くの柱にしがみついて耐えていた。彼女は信じられないものを見るように目を大きく、大きく見開き、口をあんぐりと開けたまま、目の前の惨状に言葉を失っている。
やがて、衝撃が収まり、爆音が耳鳴りへと変わっていく。水を打ったように静まり返った訓練場に、パラパラと壁の破片が落ちる音だけが響いていた。
「……」
カイは、もうもうと立ち昇る黒煙と、無残に抉られ、ひしゃげ、高熱で赤く変色している壁を見つめ、内心で深々と頭を抱えた。
(まただ! また加減を間違えた! なぜこうなる!? 米粒どころか、芥子粒でも大きすぎたというのか…! もはや原子レベルで制御しないとダメなのか!?)
この世界の魔法の威力の基準が、根本的に理解できない。前の世界の常識で言えば、「ファイアアロー」は焚き火の火種にする程度の、ささやかな魔法のはずだった。だが、この世界では、カイが放つ限り、戦略兵器と化してしまうらしい。
訓練場は、まるで時が止まったかのように静まり返っていた。誰もが目の前で起こった現象を理解できず、呆然自失としている。やがて、誰かがゴクリと、乾いた喉で唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。
吹き飛ばされていた冒険者たちが、恐る恐る顔を上げる。彼らの視線は、もはやカイを侮るものではなかった。そこにあるのは、理解を超えたものに対する、純粋な恐怖と畏怖。まるで、神話の魔王か古代のドラゴンが目の前に現れたかのような眼差しだった。
リリアは、震える手でずり落ちた眼鏡の位置を直し、引きつった笑顔を必死に作りながら、幽霊でも見るかのような目でカイに言った。その声は、恐怖で上ずっている。
「か、か、カイ様……あ、あの…え、えっと……ランク、ですが……」
彼女の思考は完全に停止していた。ギルドのランク規定には、A、B、C、D、E、F、そして最高位のSランクまでが存在する。Sランクは、一人で小国を滅ぼせるほどの力を持つとされる伝説級の冒生者に与えられる称号だ。しかし、今カイが放った一撃は、そのSランクの基準さえも遥かに、馬鹿げたほどに凌駕していた。
「申し訳ありません。どうも、少し力が入りすぎたようです。この壁の弁償は、きちんとしますので」
カイが心底申し訳なさそうな表情で頭を下げると、リリアはハッと我に返り、慌ててぶんぶんと首を横に振った。
「い、いえ! 弁償などとんでもございません! と、とんでもない! こ、これは…これはもう…間違いなく、Sランク…いえ、測定不能(アンランク)です! ギルドマスター! ギルドマスターにご報告しませんと!」
リリアは半ばパニック状態でそう叫ぶと、よろめきながらも、バタバタと訓練場を駆け出していった。一刻も早く、この異常事態をトップに報告しなければならない。彼女のプロフェッショナルとしての本能が、そう告げていた。
残されたカイは、呆然とする他の冒険者たちの、畏怖と好奇と、そして僅かな敵意すら入り混じった複雑な視線を一身に浴びながら、やれやれと空を見上げて肩をすくめるしかなかった。
(どうやら、この世界で「普通」に、「目立たず」に振る舞うのは、思った以上に難易度が高いらしいぞ…)
しかし、その絶望的な状況ですらも、カイにとっては新たな「楽しみ」の始まりに過ぎなかった。
周囲の人間たちが自分という存在をどう認識し、どう反応し、どう動くのか。その驚きと混乱を間近で観察するのは、最高のエンターテイメントだ。彼は、これからどんな面白い騒動が自分を待ち受けているのかと、内心ではワクワクしていたのだった。規格外の力は、時に最高の退屈しのぎになる。そのことを、カイは改めて実感していた。
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