第4話:開拓者の街フロンティア、喧騒と活気の中で

 風が、季節の移ろいを告げていた。


 乾いた土と、遠い森の木々が発する青々しい香りを乗せた風が、街道を渡ってカイの頬を撫でていく。空は高く澄み渡り、うろこ雲が秋の訪れを予感させていた。つい先ほどまで一緒に旅をしていたバルツ商会の陽気な面々の声が、まだ耳の奥で微かに響いているような気がした。彼らが乗る馬車の轍が、街道の土に真新しい軌跡を残している。それもやがては風に吹かれ、無数の旅人たちの足跡に紛れて消えていくのだろう。


「世話になったな」


 カイは小さく呟き、彼らが去っていった方向へ一度だけ振り返ると、すぐに前を向いた。一抹の寂しさはあったが、それ以上に、これから始まる未知への期待感が心を占めていた。一人旅の解放感が、足取りを軽くする。バルツのような気のいい商人と旅をするのも悪くなかったが、自分のペースで、気の向くままに歩を進めるこの感覚は、何物にも代えがたい魅力があった。


 バルツ商会の一行と別れてから、カイの足は自然と速まっていた。


 街道はなだらかな丘陵地帯を縫うように続いている。道の両脇には、夏の名残を惜しむかのように背の高い草原が広がり、風が通るたびに銀色の穂波が美しくうねっていた。ところどころに名も知らぬ紫や黄色の野花が健気に咲いており、その蜜を求めて羽音を立てる蜂の姿が見える。太陽は西に傾き始め、その柔らかな日差しがカイの影を長く、長く東へと伸ばしていた。


 しばらく歩くと、街道は次第に人の往来が増え、道の様相も変わってきた。踏み固められた土の道には、いくつもの馬車の轍が深く刻まれ、所々が石畳で補強されている。すれ違う人々の顔つきにも、どこか都会の匂いがした。重い荷を背負った行商人、家族連れ、武装した傭兵らしき一団。彼らの服装や言葉は様々だったが、誰もが確かな目的を持ってこの道を行き交っているように見えた。


 やがて、丘を一つ越えたところで、カイの視界が開けた。


 遠くに、土埃に霞む大きな集落の影が見え始めていた。夕陽を受け、その輪郭が黄金色に縁取られている。


「あれが……」


 それが、行商人のバルツが言っていた開拓者の街「フロンティア」なのだろう。地図もなく、ただ方角だけを頼りに歩いてきた旅の、最初の目的地。その威容を前に、カイは思わず足を止めた。遠目にも、ただの村や町ではないことがわかる。まるで大地から直接生えてきたかのような、力強い存在感を放っていた。


 近づくにつれて、その規模が想像以上であることがわかってきた。周囲を囲むのは、丸太を組み合わせた簡素な柵のようなものだろうと高を括っていたが、カイの甘い想像は壮麗な現実によって打ち砕かれた。


 目の前にそびえ立つのは、高さ5メートルはあろうかという堅牢な城壁だった。不揃いながらも巨大な石材を巧みに組み上げた土台の上に、硬質な木材で組まれた壁が続いている。それは長い風雪に耐え、幾度かの襲撃を退けてきたであろう歴戦の風格を漂わせていた。壁の表面には苔が生え、蔦が絡まり、この街が積み重ねてきた歴史の長さを物語っている。


 ところどころに監視塔らしきものも見え、その上には旗がはためいている。夕風を受け、音を立てて翻る旗には、おそらくこの街の紋章であろう、槌と剣を交差させた意匠が描かれていた。塔の上では、陽光を反射する兜のきらめきが見え、開拓地とはいえ、それなりの防衛力を持っていることが窺える。ただ流れ着いた者たちが無秩序に作った集落ではない。明確な意志と、街を守るという強い覚悟によって築かれた要塞都市。それがフロンティアの第一印象だった。


 城門は大きく開け放たれており、まるで巨大な獣の顎のように、訪れる者たちを迎え入れていた。門を出入りする人々や馬車で、その周辺は絶えず賑わっている。門の左右には武装した門番が数人、鋭い視線を往来に送りながら直立していた。彼らの視線は、単なる監視ではない。獲物を探す肉食獣のように、相手の力量や意図を瞬時に見極めようとする、実戦経験に裏打ちされた眼光だった。


 門番は屈強な人間族の男が中心だったが、その中には、分厚い胸板と丸太のような腕を持つ熊のような体躯の獣人や、背は低いが全身が筋肉の鎧で覆われ、精悍な目つきをしたドワーフの姿も見受けられる。彼らはそれぞれ異なる形状の鎧を身につけ、巨大な戦斧や重厚なハルバードを携えていた。その多様な種族構成こそが、このフロンティアという街の性格を雄弁に物語っているようだった。


 カイは深呼吸を一つすると、人々の流れに混じって門へと近づいた。門をくぐる直前、槍を持った人間族の門番の一人が、カイの前にすっと進み出て、その行く手を遮った。鎧には無数の傷が刻まれ、日に焼けた顔には深い皺が走っている。その男は、やや尊大な、しかし職務に忠実な声でカイに声をかけてきた。


「おい、そこの旅人、どこから来た? フロンティアに入るのは初めてか?」


 槍の穂先は地面に向けられているが、その石突はいつでもカイの喉元を突ける位置にあった。男の視線が、カイの頭のてっぺんから爪先までを舐めるように検分する。


「ああ、そうだ。東の森を抜けてきた。特にこれといった目的はない、気ままな旅だよ」


 カイは努めてにこやかに、警戒心を抱かせないように穏やかに答えた。両手を軽く広げ、敵意がないことを示す。この世界に来てから身につけた、ささやかな処世術だった。


 門番はカイの身なり、特に腰に剣の一本すら下げていない軽装な点と、歴戦の門番を前にしても揺らがない落ち着き払った態度を、訝しげに見比べた。森を抜けてきたにしては、衣服に汚れや破れが少なく、その佇まいには妙な自信が感じられる。それが逆に胡散臭さを感じさせたのかもしれない。


「ふん、森を抜けてきたにしては随分と小綺麗な格好だな。まあいい、見たところ怪しい魔力の揺らぎもない。通ってよし」


 門番は少しだけ口の端を歪めて笑うと、槍を引いた。


「ただし、街中で騒ぎを起こすなよ。忠告しておくが、この街は夢を追う開拓者の集まりであると同時に、どうしようもない無法者の掃き溜めでもある。腕に覚えのない者が粋がれば、次の日の朝日を拝むことなく路地裏の肥やしになる。自分の身は、自分で守れ」


 釘を刺すような物言いだったが、その言葉の裏には、経験則からくる一種の親切心が滲んでいるのをカイは感じ取った。


「忠告、感謝する。肝に銘じておこう」


 カイは特に気にせず礼を言って頭を軽く下げると、堂々と門をくぐった。背後で、門番が「命知らずか、よほどの馬鹿か、あるいは……」と呟く声が聞こえた気がしたが、振り返ることはしなかった。


 城壁の内側へ一歩足を踏み入れた瞬間、カイは圧倒的な情報の奔流に飲み込まれた。


 そこはカイの想像を遥かに超える喧騒と活気、そして混沌に満ちた空間だった。


 まず、鼻腔を突いたのは、ありとあらゆるものが混ざり合った濃厚な匂いだった。香ばしい焼き肉の匂い、甘い果物の匂い、得体の知れない香辛料のエキゾチックな香り、家畜の糞尿の匂い、人々の汗の匂い、そして微かに漂う鉄と血の匂い。それらが渾然一体となって、この街の生命力そのものとして空気を満たしていた。


 次に、耳に飛び込んできたのは、途切れることのない音の洪水だ。様々な言語での呼び声、笑い声、怒声。遠くから聞こえるリズミカルな鍛冶の槌音。どこかの酒場から漏れ聞こえる陽気な楽器の音色。荷馬車の車輪が石畳を軋ませる音。その全てが重なり合い、巨大な一つの交響曲となってカイの鼓膜を揺さぶった。


 そして、目に見える光景は、カイを完全に魅了した。


 石畳と土がまだらに入り混じる道には、様々な種族の人々が溢れかえっている。しなやかな体躯に猫や犬の耳と尻尾を持つ獣人たちは、感情の起伏がその耳や尻尾の動きに素直に現れていて見ていて飽きない。尖った耳と彫刻のように整った優美な顔立ちのエルフたちは、人混みの中を流れるように歩き、その存在自体が周囲から浮き上がって見えた。背は低いが、誰もが分厚い胸板と太い腕を持つ屈強なドワーフたちは、力強い足取りで地面を踏みしめ、その目は常に確かな獲物を探しているかのようだ。そしてもちろん、この街で最も数の多い人間たち。商人、職人、冒険者、農夫、そして素性の知れない者たち。


 彼らがそれぞれの言語で話し、笑い、時には肩をぶつけ合って怒鳴り合いながら行き交っている。カイにはその全ての言語が、まるで母国語のように滑らかに理解できたが、これもまた、この世界に自分を送り込んだ神様(仮)の親切なサービスなのだろう。そのおかげで、カイはただの傍観者ではなく、この世界の当事者として、この喧騒の中に立つことができていた。


(これは……壮観だな。前の世界では、こんな光景はどんな大規模なフェスティバルでも、お祭りでもなければ見られなかった)


 カイは子供のように目を輝かせ、首を絶えず動かしながら周囲の景色を興味深く観察した。まるで、初めて訪れた外国の巨大な市場に迷い込んだような興奮が、胸の奥から込み上げてくる。


 建物の様式も、驚くほど多種多様だった。


 ドワーフが建てたと思われる建物は、ほとんどが堅牢な石造りで、窓は小さく、壁は分厚い。実用性と防御性を何よりも重視した、彼らの気質を体現したような重厚な存在感を放っていた。石の継ぎ目は驚くほど精密で、何百年もの風雪にもびくともしないであろうという自信に満ちている。


 その隣には、まるで対比をなすかのように、エルフの手によるものか、曲線的で美しい木組みの建物が優雅な雰囲気を醸し出している。生きている木を巧みに利用して建てられたかのようなその家は、柱や梁に繊細な彫刻が施され、大きな窓からは柔らかな光が差し込んでいた。自然との調和を重んじる彼らの美意識が、建物の隅々にまで息づいているのがわかる。


 獣人たちが経営する店は、おそらく機能性を重視したのだろう、簡素ながらも開放的な造りの小屋が多い。壁を取り払い、風通しを良くした造りは、多くの客を効率よく捌くための工夫に見えた。そこからは、威勢のいい呼び声と共に、食欲をそそる匂いが絶えず流れ出してきている。


 それら人間、ドワーフ、エルフ、獣人たちの建築様式が、何の計画性もなく、しかし不思議な調和を保ちながら渾然一体となって、フロンティアという街の独特な景観を作り上げていた。統一感のなさが、逆にこの街の懐の深さと自由な気風を象徴しているかのようだった。


 道の両脇には露店がずらりと並び、途切れることのない威勢の良い呼び声が飛び交っている。


「へい、らっしゃい! 今朝採れたてのラズベリーだよ! 甘くて美味いぜ!」

「ミスリル銀のナイフはどうだ? 切れ味は保証付きだぜ、ゴブリンの首くらいなら骨ごと断ち切れる!」

「見てってよ、お嬢さん。月の光を浴びて輝く、エルフの涙石の首飾りだよ。あんたの美しさを引き立てること間違いなしさ!」


 店先に並べられた品々は、カイの知的好奇心を容赦なく刺激した。


 見たこともないような鮮やかな青色をしたリンゴや、拳ほどもある巨大なキノコ。串に刺して焼かれた、おそらくは魔物であろう肉塊からは、甘辛いタレと香ばしい脂の匂いが漂ってくる。水槽の中では、奇妙な形をした発光する魚介類がゆらゆらと泳いでいた。棚には、きらびやかな装飾が施された武具や、得体の知れない乾燥した薬草、瓶詰めになった魔物の目玉や心臓などが所狭しと並べられている。


 それら全てが、カイにとっては新鮮で、驚きに満ちていた。一つ一つの品物に、それぞれの物語があるように感じられる。どの露店主も、自分の商品に絶対の自信を持っているかのように、生き生きとした表情で客と渡り合っていた。その熱気に当てられ、カイの心も自然と高揚していく。


(ふむ、見るもの聞くもの、全てが面白い。だが、まずは腹ごしらえと、今夜の寝床の確保が先決だな。それから、この街の空気をゆっくりと、時間をかけて味わうとしよう)


 カイは市場の最も賑やかな大通りを抜け、少し脇道に入った。喧騒がいくらか和らぎ、人々の生活の匂いが濃くなる。そんな比較的落ち着いた通りで、「木の盾亭」という古びた木製の看板を掲げた一軒の宿屋を見つけた。


 看板には、その名の通り、使い古されて傷だらけになった木の盾が飾られている。その盾が、この宿屋が多くの冒険者たちに愛され、彼らの無事を祈ってきた証であるかのように見えた。外観は古いが、窓枠は綺麗に磨かれ、入り口の階段も掃き清められている。手入れが行き届いている証拠だ。中からは、陽気な音楽と人々の楽しげな話し声がかすかに漏れ聞こえてくる。悪くない。カイは直感的にそう判断した。


 重厚な木の扉を押し開けて中に入ると、カラン、とドアベルが心地よい音を立てた。


 そこは酒場を兼ねた宿屋のようで、むっとするような熱気と、エール、料理、そして人々の汗が混じり合った匂いがカイを出迎えた。内部は意外に広く、磨きこまれた木のテーブルと椅子がいくつも並んでいる。部屋の中央には大きな暖炉があり、赤々と燃える炎が室内を暖かく照らしていた。


 カウンターの奥では、その暖炉の炎にも負けないほど快活で、恰幅の良い女将らしき女性が、屈強な男たちを相手に忙しそうに立ち働いていた。その太い腕で巨大なエールのジョッキを軽々と運び、客の冗談に豪快な笑い声を返している。


 客の半分以上は、カイが想像した通り、冒険者風の屈強な男女だった。革鎧や金属鎧を身につけたまま、エールらしき琥珀色の液体を木のジョッキで呷りながら、今日の獲物の自慢話や失敗談に大声で興じている。その熱気とエネルギーは、先ほどの市場とはまた違う、より直接的で荒々しいものだった。


 カイが入り口で少しだけ様子を伺っていると、カウンターの向こうから女将の鋭い視線が飛んできた。彼女はカイの姿を認めると、その日に焼けた顔に人懐っこい笑みを浮かべ、快活な声で声をかけてきた。


「いらっしゃい! 見かけない顔だね、旅の人かい? 一人かい? 食事かい、それとも泊まりかい?」


 矢継ぎ早の質問だったが、その口調には客を値踏みするような嫌らしさはなく、純粋な歓迎の意が感じられた。


「ああ、一人だ。泊まりたいんだが、部屋は空いているか? それと、何か腹にたまるものを頼みたいんだが」


 カイはカウンターに近づきながら答えた。


「あいよ! 運がいいね、あんた。部屋はちょうど一つ、さっき腕利きのパーティが出て行ったところで空いたところさ。掃除は済ませてあるよ! 食事は……そうだね、今日のオススメは『ロックボアのハーブ焼き』だよ! ギルドの連中が今朝方仕留めてきたばかりの新鮮なやつでね、うちの特製ハーブで臭みをしっかり消してあるから、柔らかくて美味いって評判さ。それと、うちのエールは地下の貯蔵庫で冷やしてあるから、長旅の疲れも吹っ飛ぶくらい美味いよ!」


 女将は立て板に水のごとく説明すると、ニカッと白い歯を見せて笑った。その笑顔には不思議な説得力がある。


「では、それをお願いしよう。ロックボアのハーブ焼きとエールを。部屋は後で見せてくれればいい」


「はいよ、毎度あり! すぐに用意させるから、そこの空いてる席にでも座ってな!」


 カイは女将に促されるまま、カウンターからもそう遠くない、壁際の空いている一人掛けの席に腰を下ろした。テーブルは長年の使用で傷だらけだったが、油で汚れているということはなく、清潔に保たれている。


 席に着いて改めて店内を見渡すと、この宿屋が多くの人々に愛されている理由がわかる気がした。決して高級ではないが、清潔で、活気があり、そして何より女将の気風の良さがこの店の雰囲気を作っている。壁には、この宿屋を根城にしていたであろう冒険者たちが残していったのか、様々な武器や防具、討伐した魔物の頭蓋骨などが飾られていた。それら一つ一つが、このフロンティアという街の歴史の一部なのだろう。


 しばらくして、女将自らが大きな盆を抱えてカイのテーブルにやってきた。


「お待ちどう! ロックボアのハーブ焼きだよ!」


 ドン、とテーブルに置かれた皿の上には、大ぶりの猪肉を香草と共に豪快に焼き上げた料理が湯気を立てていた。こんがりとついた焼き目と、滴り落ちる肉汁。ローズマリーやタイムのような、嗅ぎ慣れたハーブの香りが混じり合った、食欲を猛烈にそそる香りが鼻腔をくすぐる。添えられているのは、ずっしりと重そうな黒パンが二切れと、豆がごろごろ入った素朴なスープ。エールは、使い込まれた木のジョッキになみなみと注がれ、表面にはきめ細かい泡が立っていた。


(さて、異世界の味はいかほどか……)


 カイは期待に胸を膨らませながら、テーブルに備え付けられていたナイフとフォークを手に取った。驚いたことに、その形状は前の世界で使っていたものとほとんど同じだった。これも神様(仮)の計らいだろうか、それとも文化とは収斂進化するものなのだろうか。そんなことを考えながら、カイは分厚い肉にナイフを入れた。


 意外なほどすっとナイフが通る。表面はカリッと焼かれているが、中は美しいロゼ色を保っているようだ。切り分けた一切れをフォークで突き刺し、ゆっくりと口に運んだ。


「……ほう、これは美味い!」


 思わず、感嘆の声が漏れた。


 口に入れた瞬間、肉は驚くほど柔らかく、噛むほどに濃厚な旨味の洪水が舌の上に広がる。ロックボア、つまり猪の肉と聞いて少しは覚悟していた獣臭さは、全く感じられない。女将が自慢していた通り、数種類のハーブが絶妙な塩梅でその香りを肉に移し、野性味あふれる力強い風味は残しつつ、見事に臭みだけを消し去っていた。程よい塩加減が、肉本来の甘みを最大限に引き立てている。


 夢中で肉を頬張り、次に黒パンを手に取った。少し硬いが、噛みしめるほどに麦の香ばしさと素朴な甘みが口の中に広がる。これを肉汁に浸して食べると、パンが肉の旨味を吸い込んで、また格別な味わいになった。豆のスープは、様々な野菜が煮込まれているのか、滋味深い優しい味がする。荒々しい肉料理の合間に飲むと、口の中がさっぱりとして、また新たな気持ちで肉と向き合える。


 そして、エールだ。木のジョッキを呷ると、ひんやりとした液体が喉を滑り落ちていく。濃厚な麦の風味と、ホップの心地よい苦味。そして、後から追いかけてくる微かな果実のような甘い香り。炭酸は弱いが、それがかえって深い味わいを際立たせていた。旅の乾いた喉に、この一杯はまさに天からの恵みだった。


(これはいいな。前の世界の、計算され尽くした美食とはまた違う。素材の生命力をそのまま味わうような、力強く、素朴な美味さだ)


 カイは完全に我を忘れ、夢中で食事を進めた。


 一心不乱に肉を切り、パンをちぎり、スープをすする。時折エールで喉を潤す。その一つ一つの行為が、この異世界で自分が確かに「生きている」という実感を与えてくれた。


 内心では、(カウンターの向こうでエルフの美しいウェイトレスが微笑みながら酌をしてくれたら最高なんだが…いやいや、今は食事に集中だ)などと、転生者らしい雑念も浮かんだが、それはそれとして、異世界での最初のまともな食事を、カイは心ゆくまで楽しんだ。


 食事のペースが少し落ちてくると、自然と周囲の喧騒にも耳を傾ける余裕が生まれてきた。聞こえてくるのは、この街ならではの生々しい情報ばかりだ。


「聞いたか? 南の『嘆きの沼』に、またヒュドラが出たらしいぜ。ギルドから高額の討伐依頼が出てるが、首が三本もある化け物だ。生半可なパーティじゃ返り討ちだろ」


「それより、西の街道を荒らしてる『赤牙盗賊団』の方が厄介だ。あいつら、元はどこかの国の正規兵だったとかで、連携が取れてやがる。この前も、ドワーフの商隊が一つやられたらしい」


「新しいダンジョンが見つかったって噂は本当かい? 『忘れられた王の地下墓所』とか言ったか。まだ低層しか調査されてないらしいが、古代の遺物(アーティファクト)が眠ってるかもしれないって話だぜ」


「馬鹿言え、そんな甘い話があるか。大方、罠だらけでスケルトンがうじゃうじゃいるだけだろうよ。俺はもっと堅実な、ゴブリン退治で小銭を稼ぐさ」


 魔物の討伐自慢、新しいダンジョンの噂、最近出没する危険な盗賊団の話、そして遠い人間の国同士で始まったという戦争の噂。


 それら全てが、カイにとっては新鮮な情報であり、この世界の息遣いを直接感じる貴重な機会だった。そして、これから始まるであろう自らの冒険への期待を、否応なく膨らませるものだった。


 ふと、カイは宿屋の隅にあるテーブルに視線を向けた。そこでは、フードを目深にかぶった国籍不明の男たちが数人、テーブルに身を乗り出すようにして、声を潜めて何やら怪しげな密談を交わしているのが見えた。彼らの周りだけ、陽気な酒場の雰囲気から切り離されたように、空気が淀んでいる。時折、鋭い視線が店内を走るのがわかったが、カイは特に気にも留めず、彼らから視線を外した。厄介事には首を突っ込まない。それもまた、この街で生き抜くための知恵だろう。


 カイは最後の一切れの肉を惜しむように食べ終え、ジョッキに残っていたエールをぐいっと飲み干した。


「ぷはぁっ……」


 満足のため息が漏れる。胃の底から満たされていく感覚が心地よい。


(さて、腹も満たされたことだし、次は女将が言っていた冒険者ギルドとやらに行ってみるか。どんな依頼があり、どんな連中がいるのか、楽しみだ)


 この街で生きていくためには、情報と金、そして自分の力を試す場所が必要だ。冒険者ギルドは、その全てを与えてくれる場所であるに違いない。


 カイは席を立ち、勘定を済ませるためにカウンターへ向かった。


「女将さん、ごちそうさま。最高に美味かったよ。会計と、部屋の鍵を頼む」


「あいよ! 口に合ったようで何よりさ!」


 女将はにこやかに応じると、手際よく会計を済ませ、古びた真鍮の鍵をカイに手渡した。


「部屋は二階の突き当たり、三番の部屋だよ。質素だけど、ベッドは清潔にしといたからね。ゆっくりおやすみ」


「ありがとう。少し街を見てから休むよ」


 カイは礼を言って鍵を受け取ると、「木の盾亭」を後にした。


 外に出ると、空はすっかり夜の帳に包まれていた。しかし、街は昼間にも増して活気づいているように見える。家々の窓からは温かな光が漏れ、通りには魔法の光で灯された街灯が等間隔に並び、石畳を幻想的に照らし出していた。酒場からは陽気な歌声が響き渡り、夜の闇をものともしない人々の熱気が、街全体を覆っている。


 カイは満足げに息をつくと、フロンティアの夜の喧騒の中へと、確かな足取りで再び足を踏み出すのだった。冒険の始まりを告げる、胸の高鳴りを感じながら。




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