第3話:街道を行く、行商人と世界の断片
自らが引き起こした小規模な天変地異の跡地から離れ、カイは再び森の深部へと歩みを進めていた。先程の戦闘――というより一方的な威力実験――で生じた巨大なクレーターと、その後の鎮火作業で舞い上がった土埃や灰を多少は被ったはずだが、不思議なことにカイが身にまとう簡素な麻の衣服はほとんど汚れていなかった。まるで、見えない薄い膜が汚れを弾いているかのようだ。
(これも、あの神様(仮)の祝福、チート能力の一環というやつか。あるいは、この世界の衣服は魔法的な加護でも付与されているのが普通なのか…)
カイには判別がつかなかったが、いちいち汚れを気にする必要がないのは手間が省けて良いことだと素直に受け入れた。彼は、自らの内に脈打つ膨大な魔力の流れを意識しながら、慎重に歩を進める。先程のファイアボールの暴発は、彼に力の強大さと共に、その制御の難しさを痛感させていた。
(問題は、出力の調整だな。蛇口を少しひねるつもりが、ダムを決壊させてしまうようなものだ。これでは、まともな戦闘どころか日常生活さえおぼつかない)
カイは歩きながら、体内の魔力を指先に集めては霧散させる、という地道な訓練を繰り返した。最初は指先がまばゆく発光してしまい慌てて力を霧散させたが、数度繰り返すうち、蝋燭の灯火ほどのごく微弱な光を安定して灯せるようになった。九十年の長きにわたり培われた精神力と集中力が、規格外の才能を制御するための確かな礎となっている。
そんなことをしていると、足元で何かが蠢く気配がした。視線を落とすと、そこには青く半透明な不定形のゼリー状の物体が、地面をゆっくりと這っていた。大きさは人の頭ほど。スライム、というやつだろう。前世の物語では、最弱のモンスターとして描かれることの多い存在だ。
(練習相手には、ちょうどいいかもしれんな)
カイは面白半分に、拾っておいた手頃な木の枝でスライムの体をつついてみた。ぷるん、とした感触が枝を通して伝わってくる。スライムは迷惑そうに体を揺らすと、その体から一部を触手のように伸ばし、枝に巻き付いてきた。じゅう、と微かな音を立てて枝が溶けていく。弱いながらも、酸による溶解能力を持っているらしい。
(物理攻撃は効きにくい、か。ならば…)
カイは武術の要領で、意識を集中させる。スライムの半透明の体の中央に、こぶし大の僅かに色の濃い部分が見えた。おそらく、あれが核、魔石だろう。カイは体を沈め、指先を一本の槍のように鋭く突き出した。それは力を込めた突きではなく、相手の防御を無効化し、内部の急所のみを正確に穿つための、浸透勁の応用だった。
カイの指先は、スライムのゼリー状の体に何の抵抗もなく沈み込み、的確に中心部の核を捉えた。パリン、と硬質なものが砕ける微かな音がして、スライムは体の輪郭を保てなくなり、どろりとした青い液体となって地面に広がった。後には、指先ほどの大きさの、青く澄んだ小さな石が残されていた。
「ほう、これが魔石か。確かに、微弱ながらも魔力を感じる」
カイはその魔石を拾い上げ、森で手に入れた蔓を編んで作った粗末な革袋にしまい込んだ。牙狼から剥ぎ取った見事な銀毛の毛皮と、鋭い牙もそこに入っている。これらがこの世界で価値を持つのか、確かめる必要があった。
森の中をさらに半日ほど進むと、周囲の風景が徐々に変化していくのが分かった。天を覆っていた巨木の森は少しずつその密度を低くし、代わりに背の低い樫や楢の木々、そして色とりどりの野花が咲く草原が目立ち始める。風の匂いも、湿った土の香りから、乾いた草いきれと花の蜜の甘い香りが混じったものへと変わっていった。空が、広くなった。
やがて、最後の木々の列を抜けた瞬間、カイの視界は一気に開けた。
目の前には、どこまでも続くかのような広大な平原が広がっていた。空は突き抜けるように青く、夏の終わりを告げるかのような高い雲がゆっくりと流れていく。そして、その平原を貫くように、馬車が通れる程度に踏み固められた土埃の舞う一本の道が、地平線の彼方まで続いていた。
街道だ。
「ふう、ようやく森も終わりか。長かったな…」
カイは森を背に、燦々と降り注ぐ陽光を全身に浴びた。濃密な森の薄闇から解放された安堵感と、どこまでも広がる世界を前にした高揚感が、同時に胸に込み上げてくる。
さて、とカイは腕を組み、思案する。道は左右に分かれている。どちらに進んだものか。太陽の位置から東と西の方角はおおよそ見当がつく。道の状態を見るに、どちらの方向にも人の往来はあるようだ。轍の跡が、新しいものも古いものも無数に残っている。
(どちらに進んでも、いずれは人の住む場所にたどり着くだろうが…)
カイが道の真ん中で佇んでいると、不意に東の道の向こうから何やら賑やかな音が聞こえてきた。カラコロ、カラコロ、という軽やかな車輪の音。馬のいななき。そして、複数の人の話し声や、時折響く快活な笑い声。
カイは音のする方向に目を凝らした。陽炎の向こうに、小さな黒い影がいくつか揺れているのが見える。
(旅の一行か。これは運がいい)
むやみに歩き回るよりも、まずはこの世界の住人から直接情報を得るのが最善手だ。カイは道の端に寄り、一行が通りかかるのを待つことにした。どんな相手か分からない以上、無用な警戒心を抱かせないための配慮だった。
やがて、近づいてくる一行の姿がはっきりと見えてきた。幌付きの荷馬車が三台。それを引くのは、逞しい体つきの馬だ。馬車の周囲には、剣や槍で武装した屈強な男たちが五、六人付き従い、用心深く周囲を警戒しながら歩いている。傭兵か、あるいは商会の私兵だろうか。その引き締まった表情と使い込まれた装備から、彼らがただの飾りではないことがうかがえた。比較的小規模な行商人のキャラバンといったところだろう。
カイが道の脇の草むらに腰を下ろし、彼らが通り過ぎるのを待とうとすると、先頭を歩いていた一人の男がカイの存在に気づいた。その男は、他の護衛たちよりも一回り恰幅が良く、上等そうな革のベストを着込んでいる。歳は四十代半ばといったところで、人の良さそうな丸い顔には手入れの行き届いた髭をたくわえていた。
男は護衛たちに手で合図を送り、キャラバンを停止させた。馬車のきしむ音と、馬の荒い息遣いが止む。護衛の男たちが、一斉にカイへと警戒の視線を向けた。その視線は鋭く、カイが少しでも不審な動きを見せれば、すぐさま斬りかかってきそうな緊張をはらんでいる。
恰幅の良い男――おそらく、このキャラバンの主だろう――は、護衛の一人を盾にするように一歩下がりながらも、抜け目のなさそうな瞳でカイを頭のてっぺんから爪先まで、値踏みするようにじろじろと見つめた。
「旅の方ですかな? このような場所でお一人とは、なかなかのご胆力とお見受けしますが。あるいは、ゴブリンか何かの残党ですかな?」
その声は、穏やかながらも探るような響きを持っていた。男は、カイの出で立ち――森を抜けてきたにしては小綺麗で、しかし武器らしい武器も持たず、それでいて妙に落ち着き払った得体の知れない雰囲気をまとっている――に、警戒と興味を半々に浮かべていた。
(さて、どうしたものか。あまりボロを出さずに、それでいて必要な情報を引き出したいところだが…)
カイは内心でいくつかの対応をシミュレートした。強者の振りをすれば警戒されるだけだろう。かといって、弱々しく見せれば足元を見られるかもしれない。ならば、ここは当たり障りのない「困っている旅人」を演じるのが得策か。
カイはゆっくりと立ち上がり、両手を軽く広げて敵意がないことを示すと、人懐こい、人の良い笑顔を浮かべて応じた。九十年の人生で様々な相手と交渉してきた経験が、その表情を完璧なものにしていた。
「これはご丁寧にどうも。いやはや、お恥ずかしながら少々道に迷ってしまいまして。森の中で方向感覚がすっかり狂ってしまったのです。この先に行けば、どこか人の住む場所があるのでしょうか?」
その自然な態度と、カイから害意が全く感じられなかったためか、商人の男は少しだけ表情を和らげた。護衛たちの緊張も、完全ではないがいくらか解けたようだ。
「ああ、それなら心配いりません。この街道をまっすぐ半日ほど進めば、『フロンティア』という、比較的新しいですが大きな街に着きますよ。我々も、ちょうどそこへ向かっているところです」
「フロンティア、ですか。開拓地、とは良い名前ですね。活気がありそうだ」
カイの相槌に、商人は気を良くしたのか、あるいはカイが本当にただの旅人だと思い始めたのか、少し饒舌になった。彼は護衛の陰から一歩前に出て、カイとの距離を少し詰めた。
「ええ、その名の通り、世界中から一攫千金を夢見る開拓者たちが集まってできた活気のある街でしてな。様々な種族が入り乱れ、新しい商売の機会も多い。私のような商人にとっては、宝の山のような場所です。…ですが、それだけに少々荒っぽい連中も多いのが玉に瑕でしてね」
商人はそこで言葉を切り、再びカイを観察するような目つきになった。
「あなた、もしや冒険者の方ですか? この森を一人で抜けてこられたのなら、相当な腕利きでしょう。それにしては、鎧も着けず、剣の一本もお持ちでない。装備が簡素すぎますが…」
商人の視線が、カイの腰に提げられた粗末な革袋に向けられる。中に入っている牙や毛皮が、袋の形を不自然に歪ませていた。
「いやいや、まだ駆け出しのようなものです。師に言われて、修行の旅をしている最中でして」カイは曖昧に笑った。「ところで、差し支えなければいくつかお尋ねしてもよろしいですかな? この辺りの治安や、何か気をつけるべき魔物などはいますか? 実は森の中では、牙の鋭い大きな狼に襲われましてね。危うく死ぬところでしたよ」
カイはそう言って、やれやれと肩をすくめてみせた。
「牙狼ですな! あれは動きが素早く、群れで行動することもある厄介な魔獣です。それを一人で…よくご無事で…!」
商人はカイの言葉に心底驚いた顔をしたが、カイの体に傷一つないことを見て、改めて彼の実力を測りかねているようだった。この男は、ただ者ではない。商人の勘が、そう告げていた。目の前の男は、とんでもない実力者か、あるいは稀代のほら吹きのどちらかだ。そして、その落ち着き払った佇まいは、前者の可能性が高いことを示唆していた。
商人の態度が、明らかに変わった。先程までの探るようなものではなく、敬意と、そして利用価値を探るような商売人としての色が濃くなる。
「いやはや、それは失礼いたしました。あなた様ほどのお方なら、道中の心配はご不要でしたな。フロンティア周辺は比較的街道の整備も進んでおりますが、それでもゴブリンやオークといった亜人種の盗賊が、街道を外れた森や岩陰に潜んでいることがあります。夜間には、グールやスケルトンといったアンデッドや、さらに凶暴な夜行性の魔物も出没しますので、野宿は推奨されませんな。腕に覚えのない旅人は、我々のようなキャラバンに同行を求めるか、街のギルドで腕利きの冒険者を護衛に雇うのが普通ですな」
カイは真剣な顔で頷きながら、さらに核心的な情報を引き出す。
「なるほど、よく分かりました。ありがとうございます。つかぬことをお伺いしますが、この世界では通貨はどのようなものが使われているのですか? また、この辺りで力を持つ国や、大きな勢力などはあるのでしょうか? 私、辺鄙な村の生まれなもので、世情に疎くて…」
カイがそう言うと、商人は「なるほど」と得心がいったような顔をした。世間から隔絶された場所で修行していた高弟か何かだろう、と自分の中でカイの人物像を組み立てたようだった。
「なるほど、そういう事情でしたか。通貨は主に『ギル』と呼ばれる硬貨が大陸共通で使われておりますな。銅貨、銀貨、金貨、そして一般人はまずお目にかかれませんが、白金貨とあります。百銅貨で一銀貨、百銀貨で一金貨というのが基本的なレートです」
商人は懐から一枚の銀貨を取り出して、カイに見せた。精巧な女神の横顔が刻印されている。
「そして、勢力についてですが…これがまた、複雑でしてな」
商人は少し声を潜め、周囲を窺うようにしてから話を続けた。
「まず、このフロンティアという街ですが、ここはどこの国の干渉もあまり受けない『自由都市』のようなものです。ですが、地理的には三つの大国のちょうど緩衝地帯に位置しておりまして、常に緊張に晒されている、とも言えます」
商人は、地面に木の枝で簡単な地図を描き始めた。
「まず、この街道を東にずっと行けば、広大な領土を持つ『アークライト共和国』があります。元々は王国でしたが、数十年前に市民革命が起きて共和制へ移行した国です。議会が力を持っており、商業が盛んで比較的自由な気風ですが、それゆえに貴族派と市民派の対立が絶えないとか」
「次に、西には尚武の気風が非常に強い『ガルブレイス帝国』。皇帝を頂点とした完全な軍事国家で、強力な騎士団を擁し、常に領土拡大の機会を窺っています。共和国とは長年の宿敵で、国境では小競り合いが絶えません」
「そして、南。遥か南には、唯一神アーテを崇める『聖都エルミナ』を擁する宗教国家、アーテリス教国があります。教皇が絶大な権威を持ち、その下に聖騎士団を従えている。異端や悪魔を許さず、その教えは時に狂信的ですらある。彼らは、魔法を神からの授かりものとする一方で、魔族や亜人種を徹底的に敵視しています」
共和国、帝国、宗教国家。三つの大国が睨み合っている、か。カイは、前世の歴史を思い出しながら、その緊張関係を頭に叩き込んだ。
「それぞれが睨み合っている状況でして、いつ大きな争いが起きてもおかしくない、というのがもっぱらの噂ですな。現に、三国の間では表向きは平和を装いながら、裏では諜報員や暗殺者が暗躍していると言われています」
商人はそこで一呼吸置き、さらに声を低くして、最も重要な情報に触れた。
「ああ、それから、忘れてはならないのが…『魔王』の存在です」
その言葉が出た瞬間、キャラバンの護衛たちの顔に、一瞬だが明確な恐怖の色が浮かんだのを、カイは見逃さなかった。
「遥か北の、人間が住めぬ不毛の大地…『魔大陸』には、我々人間の敵である魔族を束ねる、六人の強力な魔王が君臨していると言われています。それぞれが絶大な力を持ち、人間界への侵攻を虎視眈々と狙っている。時折、その配下の強力な魔族が人間界に侵入しては、街を一つ滅ぼすような大きな被害をもたらしています。このフロンティアも、数年前には魔王軍の幹部が率いる小規模な軍団に襲撃され、多くの犠牲者が出たとか…」
(共和国、帝国、宗教国家、そして六人の魔王か。なるほど、なかなか賑やかで、面白そうな世界じゃないか)
カイは、恐怖を感じるどころか、内心でほくそ笑んだ。老いて眠っていた闘争心が、うずうずと疼くのを感じる。強者との出会いには、どうやら事欠かなさそうだ。
「…貴重な情報を、本当にありがとうございます。おかげで、この世界がどういう場所なのか、少しだけ輪郭が見えてきました」
カイは深々と頭を下げて礼を言った。その丁寧な態度に、商人は完全に気を許したようだった。
「いえいえ、これくらいは。ところで、先程から気になっていたのですが、その腰の袋の中身は、もしや森で手に入れたものですかな?」
商人の目が、再びカイの革袋に向けられる。今度は、純粋な商売人としての好奇の目だった。
「ええ、まあ。不躾ながら、こういったものはフロンティアの街で換金できるものでしょうか?」
カイはそう言うと、革袋から中身をいくつか取り出して見せた。まずは、牙狼の毛皮。銀色に輝くそれは、カイが丁寧に剥いだため傷一つなく完璧な状態だった。次に、鋭く尖った牙。そして最後に、先ほどスライムを倒した際に手に入れた、指先ほどの大きさの青い魔石を一つ。
商人は、目ざとくそれらに視線を走らせた。
「ほう…! これは見事な牙狼の毛皮ですな。これほど状態の良いものは、なかなかお目にかかれませんぞ。牙も見事だ。武具の装飾品として高く売れるでしょう」
商人は毛皮と牙にはプロとして感心しつつも、まだ冷静さを保っていた。だが、彼が小さな青い魔石を手に取った瞬間、その表情がわずかに変わった。彼は魔石を指でつまみ、陽光にかざして、その透明度や内部の魔力の揺らめきを確かめる。そして、カイには気づかれないように、ごくりと喉を鳴らした。
(…ほう?)
カイは、その微細な変化を見逃さなかった。この小さな石ころに、それほどの価値があるというのか。
商人はすぐにいつもの抜け目のない商人の顔に戻り、咳払いを一つした。
「ふむ…この魔石も、まあまあの質ですな。フロンティアには冒険者ギルドがありますから、そこで買い取ってもらえます。武具屋や、魔法の道具を作る工房なんかでも需要がありますな。…もしよろしければ、カイ殿…いや、カイ様。この場で私が、適正な価格で買い取らせていただいても構いませんが…どうですかな? 街まで運ぶ手間も省けますし、ギルドの連中は足元を見て買い叩こうとしますからな。私なら、特別に色をつけますぞ? もちろん、手数料は少しばかりいただきますがね」
商人はちゃっかりと、そして実に巧みに商売に繋げようとしてくる。その抜け目のなさに、カイは思わず苦笑した。だが、初めての換金だ。ここで言い値で売るよりも、まずはギルドで相場を知るのが先決だろう。
「いえ、お気遣いなく。せっかくですから、まずは街の様子を見てみたいので。それに、この世界の通貨をまだ一枚も持っておりませんので」
「おお、そうでしたな、それは失礼いたしました。そうですか、それは残念。では、カイ様と名乗られましたかな? もしフロンティアの街で何かお困りのことがあれば、私の名はバルツと申します。『バルツ商会』という、しがない商いをやっております。街に入ってすぐの大通りに店を構えておりますので、看板を探していただければ、多少のお力にはなれるかと存じます」
バルツと名乗った商人は、恭しく頭を下げた。カイという未知数の実力者と、今のうちに繋がりを持っておくことは、商人として賢明な投資だと判断したのだ。
「これはご丁寧に、バルツ殿。覚えておきましょう。道中のご安全をお祈りしております」
「カイ様も、どうかお気をつけて」
カイはバルツと別れの挨拶を交わし、フロンティアの街へと向かって再び歩き出した。
バルツのキャラバンが、カラコロと音を立てながら東へと遠ざかっていく。カイはその一行が見えなくなるまで見送ると、ふう、と一つ息をついた。
(バルツ、か。なかなかの人物だったな。腹の底は読めんが、悪い人間ではなさそうだ。利用できるものは、利用させてもらうとしよう)
手に入れた情報と、これから始まるであろう冒険に思いを馳せる。時間は既に傾き始め、街道は柔らかなオレンジ色の西日に染まっていた。自分の影が、長く、長く前に伸びている。
(フロンティア、か。まずは冒険者ギルドとやらに顔を出し、情報収集とこの世界の常識をもう少し学ぶとしよう。それから…)
カイの口元に、楽しげな笑みが浮かんだ。
(美味い酒と、美味い飯だな! これがなくては、始まらん!)
戦乱の世を生き抜き、領主として領民の生活を第一に考えてきた前世では、心から酒や食事を楽しむ余裕はあまりなかった。今度こそ、誰に気兼ねすることなく、自らの欲求のままにこの世界を味わい尽くしてみたい。
単純明快で、しかし何よりも強い動機を胸に、カイの足取りはますます軽快になっていった。街道の先には、きっと新しい出会いと、胸躍る出来事が待っているだろう。
カイが希望に満ちて歩き去った、その背中を。
彼がバルツと話していた街道脇の、樫の木の深い木陰から、一人の人物がじっと見つめていたことに、カイはまだ気づいていなかった。
その人物は、頭からすっぽりとフードを目深にかぶり、顔の大部分を影の中に隠していた。だが、その佇まいはただの旅人ではないことを示している。風が吹き木々の葉がざわめいた瞬間、フードの端がわずかにめくれ、月光を思わせる銀色の髪一房と、エルフのように尖った耳の先が、一瞬だけ西日に照らされてきらめいた。
そして、その影に隠された唇が、聞き取れないほど微かに動いた。
「…魂の輝きが、強すぎる。あれが、神託の…? いや、だが…」
謎の人物はそれだけを呟くと、まるで影に溶け込むように、音もなくその場から姿を消した。後には、風に揺れる木の葉の音だけが残されていた。
カイの新たな人生の舞台には、早くも光と、そして深い影が落ち始めていた。
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