第2話:森の洗礼、規格外の力と最初の獲物

柔らかな光の奔流が収まった時、カイの五感を異世界の鮮烈な空気が満たした。それは、死という絶対的な静寂の後に訪れた、圧倒的なまでの生命の爆発だった。


まず、鼻腔をくすぐったのは、むせ返るような濃密な緑の香り。雨上がりの森を凝縮したかのような、湿り気を帯びた土の匂い。朽ちていく倒木が放つ甘くも儚い腐葉土の香り。そして、それら全てを包み込むようにして、名も知らぬ白い花々が放つ、蜜のように甘く、それでいて凛とした気品のある香気が漂っていた。カイは思わず目を閉じたまま、深く、深く息を吸い込んだ。九十年を生きた肺が、まるで初めて呼吸の仕方を覚えたかのように、新鮮な生命力で満たされていく。


耳には、途切れることのない自然の交響曲が届いていた。すぐ近くの枝で、宝石のような瑠璃色の小鳥が甲高い声で何かを歌っている。少し遠くからは、別の鳥がそれに呼応するかのような、フルートのように澄んだ音色を響かせる。風が渡っていくたびに、天蓋を覆う巨木の葉が、サラサラ、ザワザワと、まるで大洋の波のような音を立てて揺れる。生命の営みの全てが、そこでは音になっていた。


そして、瞼を押し上げるようにゆっくりと目を開ければ、視界いっぱいに広がるのは、息を呑むほどの光景だった。


そこは、神々の庭とでも言うべき、雄大な森。天を突くかのような巨木が何本も、何十本も天に向かって伸び、その広げた枝葉が互いに絡み合うようにして緑の天蓋を形成している。カイが前世で見たどんな大木よりも遥かに巨大で、その幹はまるで古代の神殿の柱のようだった。その荘厳な姿には、悠久の時を生き抜いてきた者だけが持つ、圧倒的な存在感と風格が漂っていた。


その緑の天蓋から差し込む木漏れ日が、まるで舞台のスポットライトのように、いくつもの光の柱となって森の地面に降り注いでいる。光の筋の中では、金色や銀色に輝く微細な粒子が、キラキラと楽しげに舞っていた。それは単なる埃ではなかった。一つ一つが微弱な光と熱を放ち、生命の源そのものが可視化されたかのような、神秘的な光景だった。

(これが…魔力というものだろうか。あるいは、この世界の精霊か何かか…)

カイは手を伸ばし、光の粒子に触れようとする。指先をすり抜けていくその感覚は、まるで温かい水の中を泳ぐ小魚に触れるかのようだった。


「へぇ、生命力に満ち溢れた場所だなぁ…」


思わず、感嘆の声が漏れた。カイはゆっくりと身を起こし、自分が柔らかな苔の絨毯の上に横たわっていたことに気づく。背中に触れる苔はひんやりとして心地よく、湿った土の匂いを間近に感じさせた。


改めて、全身で新しい世界の息吹を味わう。九十年間の人生で、これほど濃密な自然に包まれた経験はなかったかもしれない。若い頃、戦の合間に森で野営したこともあったが、そこにあったのは常に緊張と警戒だった。晩年は、手入れの行き届いた庭の木々を眺めるのが関の山。だが、今、この身を置く森は、人の手が一切入っていない、ありのままの、荒々しくも美しい原初の自然そのものだった。


カイは立ち上がり、足元の柔らかな腐葉土を踏みしめた。靴はなく、素足だったが、不思議と不快感はない。むしろ、大地と直接繋がっているような感覚が、心地よささえ感じさせた。


(さて…)

カイの意識が、世界の観察から自らの内側へと向かう。

(神様(仮)が言っていた「規格外の力」とやらを、試してみるのが先決だろうな)

何をするにしても、まずは己の現状を正確に把握しなければ始まらない。それは、戦場でも、治世でも、そして新たな人生でも変わることのない鉄則だった。


カイはまず、その場に深く腰を落とし、ゆっくりと屈伸運動を始めた。ギシギシと悲鳴を上げていた老いた関節はどこにもない。若々しい肉体は、まるでよく手入れされた機械のように滑らかに、そして力強く動いた。膝や足首の関節が、驚くほどの弾力性をもって体重を吸収し、解放する。


次に、前世で日課としていた武術の型を、ゆっくりと、一つ一つの動きを確かめるように演じ始めた。拳を突き、脚を払う。体を捻り、腰を落とす。その全ての動きが、記憶の中にある理想の動きと寸分違わず、いや、それ以上に鋭く、速く、そして力強く繰り出される。空気を切り裂く拳からは「シュッ」という鋭い音が響き、大地を踏みしめる足は、地面に根を張ったかのような安定感をもたらした。


全身の筋肉が、喜びに打ち震えているかのようだった。血が猛烈な勢いで巡り、体の隅々にまで力が漲っていく。老いによって失われたと思っていた感覚が、より鮮烈になって蘇ってくる。


「よし…」


カイは満足げに頷くと、ウォーミングアップを終え、本格的な能力の検証に移った。手始めに、跳躍力。軽く膝を曲げ、ほんの少しだけ、意識して足の裏に力を込める。


次の瞬間、カイの体は重力という概念を忘れたかのように、ふわりと宙に浮き上がった。


(なっ…!?)


カイ自身の驚きをよそに、体は垂直に、凄まじい勢いで上昇していく。地面が瞬く間に遠ざかり、見上げるはずだった巨木の太い枝が、あっという間に眼下に広がる。冗談のような跳躍力だった。カイの体は軽々と10メートル近く舞い上がり、まるで木の葉が風に乗るように、狙い定めた近くの太い枝の上に、音もなく着地することができた。


枝の上から見下ろす地面は、思ったよりもずっと遠い。少なくとも、地上から10メートルはありそうだ。普通の人間ならば、この高さから落ちればただでは済まないだろう。


(これは…凄いな。まるで鳥にでもなった気分だ)


高揚感を抑えきれず、カイの口元に笑みが浮かぶ。彼は枝の上で軽く跳ね、その安定性を確かめると、今度は隣の枝に向かって跳んだ。先程よりも力を抑えたつもりだったが、それでも体は矢のように飛び、軽々と目標の枝に到達する。


楽しくなってきた。カイは童心に返ったように、枝から枝へと飛び移り始めた。まるで熟練の猿のように、あるいは森に住まう伝説の狩人のように、巨木の森を立体的に駆け巡る。疾走すれば、頬を撫でる風が轟々と音を立てて後ろに流れていく。太い木の幹を足場に蹴れば、まるで反発するバネのように体が弾かれ、容易に進行方向を変えることができた。空中で体を捻り、次の着地点を見定め、しなやかに着地する。その一連の動きは、もはや人間のそれではなく、森と一体化した獣のようだった。


かつて鍛え上げた武術の動きや体捌きの知識が、この超人的な身体能力と完璧に融合し、以前とは比較にならない次元の機動力を生み出している。カイは、自分が今、どれほどの速度で動けるのか、どれほどの高さまで登れるのか、その限界を知りたいという純粋な欲求に駆られた。


しばらく森の中を駆け巡り、身体の動きに慣れてきたところで、カイは地上に舞い降りた。今度は筋力を試してみようと思ったのだ。


あたりを見回すと、手頃な太さの倒木が目に入った。おそらく、前の晩の嵐か何かで倒れたのだろう。根元から折れたその倒木は、苔むしてはいるものの、まだ瑞々しさを保っている。その直径は、大人の男が両腕で抱えてもまだ余るほど、50センチはあろうかという代物だった。重量は、おそらく数百キロではきかないだろう。前世の屈強な若者でも、数人がかりでなければ動かせないに違いなかった。


(さて、これはどうだ?)


カイは倒木の真ん中あたりに手をかけ、ぐっと腰を落とし、馬歩の姿勢で安定させる。全身の筋肉を意識し、ゆっくりと力を込めていく。持ち上がるだろうか、というわずかな疑念は、力を込めた瞬間に吹き飛んだ。


「…軽い」


驚くほどの手応えのなさだった。まるで、藁の束でも持ち上げるかのように、いとも簡単に倒木が地面から離れる。カイは拍子抜けしながらも、そのまま倒木を頭上まで掲げた。数百キロ、いや、もしかしたら1トン近いかもしれない巨木を、片手でも支えられそうなほど軽々と持ち上げている。


力が、体の奥底から無限に湧き上がってくるような感覚。これが、神が言っていた「規格外」の片鱗か。


「はっはっは! まるで伝説の勇者だな、こりゃあ!」


カイは思わず高笑いした。そして、その力を試すように、持ち上げた倒木を、えいっ、と前方に放り投げた。


倒木は空中で巨大な槍のように回転し、凄まじい風切り音を立てながら飛んでいく。そして、数十メートル先の地面に、轟音と共に突き刺さった。


ドッゴオオォン!!


地響きが足元にまで伝わってくる。倒木が突き刺さった地点を中心に土が大きく捲れ上がり、周囲の木々が衝撃でわさわさと葉を散らした。突き刺さった倒木は、その半分以上が地面にめり込み、まるで異様な墓標のように天を指している。


カイはその光景を呆然と眺めていた。自分のしでかしたことに、自分自身が一番驚いていた。


(…信じられんな。ただ放り投げただけで、投石機を遥かに上回る威力とは)


全能感。自分の意志一つで、世界の形を容易く変えられてしまうような、甘美で、そして危険な感覚。この力がもたらす興奮に、一度味わうと病みつきになりそうだ、とカイは思った。若い頃、初めて戦で敵を斬った時の高揚感に似ている。だが、その規模も質も、比較にすらならない。


(…だが、力に酔ってはだめだ)


カイは自らの心に湧き上がった興奮を、ぐっと抑え込んだ。九十年の人生が培った理性が、警鐘を鳴らす。


(制御できてこその力だ。これは、前の人生で何度も学んだことの一つだな。力は劇薬であり、使い方を誤れば、自分も周りも破滅させる)


カイは深く息を吐き、昂った心を鎮める。そして、自らが作り出した破壊の痕跡から目をそらし、森のさらに奥へと意識を向けた。


自分の身体能力の異常さはおおよそ把握できた。次は、この世界の住人、それも人間ではない存在について知る必要があった。


(そろそろ、この世界の「住人」にも挨拶をしてみたいものだ。できれば、手応えのある相手だと嬉しいが…)


そんなことを考えながら、カイは森の深部へと足を踏み入れていった。先程までの軽やかで無邪気な動きとは違う、獲物を探す狩人のような、静かで慎重な足取りだった。


森の奥に進むにつれて、木々の密度はさらに増し、陽の光はほとんど届かなくなった。昼間だというのに、あたりは薄暗く、ひんやりとした空気が肌を撫でる。鋭敏になった五感が、周囲の微細な変化を敏感に捉えていた。遠くで小枝が折れる音、風に乗って運ばれてくる未知の獣の匂い、そして、肌をピリピリと刺すような、明確な殺気。


カイは足を止め、殺気が放たれている茂みの方を静かに見つめた。武人としての長年の経験が、相手がこちらを観察し、攻撃の機会を窺っていることを告げていた。


しばらくの静寂。風が葉を揺らす音だけが支配する空間で、緊張が極限まで高まる。


――グルルルル…


そして、茂みの奥から、地の底から響くような低い唸り声と共に、その主が姿を現した。


それは、狼だった。しかし、カイが前世で知るどんな狼とも似て非なる存在だった。体長は2メートルを優に超え、屈強な成人をも上回る巨躯だった。その全身を覆う毛並みは、まるで月光を浴びて輝くかのように美しい銀色だったが、その印象とは裏腹に、全身の筋肉は鋼のように隆起し、凄まじい力を内包していることが一目で分かった。肩までの高さはカイの腰ほどもあり、太い四肢の先には、大地をしっかりと掴むための鉤爪が鋭く光っている。


そして何より目を引くのは、その顔つきだった。大きく裂けた口から剥き出しにされた牙は、一本一本が短刀のように鋭く、獲物の骨を容易く噛み砕くであろうことを物語っている。その血走った一対の目は、知性と、そして純粋な殺意を湛えて、カイのことだけを真っ直ぐに見据えていた。明確な敵意。縄張りを侵す者への、一切の容赦のない敵意だった。


「ほう、大型の牙狼、といったところか。ダイアウルフというやつかな。なかなか精悍な顔つきをしているじゃないか」


常人ならば、その威圧感だけで腰を抜かしていただろう。だが、カイは臆することなく、むしろ口元に楽しげな笑みを浮かべて牙狼を観察した。九十年生きてきた胆力は伊達ではない。目の前の存在が、ただの獣ではなく、魔力を持つ「魔獣」であることを肌で感じ取り、その強さに興味を惹かれていた。


これが、この世界での最初の「獲物」あるいは「戦いの相手」になるのだろう。自分の力が、この世界の強者にどこまで通用するのか。試すには絶好の相手だった。


カイの余裕のある態度が気に障ったのか、牙狼は威嚇の唸りを一層低くし、全身の銀毛を逆立てる。そして、次の瞬間。


ズドンッ!という、地面が爆ぜるような音と共に、その巨体が弾丸のように射出された。薄暗い森の中を、銀色の閃光が走る。その速さは、訓練された兵士の目でも追うのが困難なほどだった。牙を剥き、カイの喉元めがけて一直線に襲いかかってくる。


だが、その猛然たる突進も、今のカイの目には、まるで水の中を進むかのように、ゆったりとしたスローモーションに映っていた。


(速いが、単純な直線軌道。これならば…)


カイの思考は、驚くほど冷静だった。時間が引き伸ばされたような感覚の中で、牙狼の筋肉の収縮、爪が土を掻く様、荒い息遣い、殺意に満ちた瞳の動きまでが、手に取るように分かる。


(まずは身体能力だけでどこまでやれるか…試させてもらおう)


カイは、迫り来る牙狼の牙先が、自らの服を掠める寸前まで引きつけた。そして、最小限の動きで、まるで柳が風を受け流すように、ひらりと身をかわす。


すれ違いざま、カイは流れるような動きで体勢を反転させ、がら空きになった牙狼の脇腹に、力を込めない、軽い掌打をトン、と叩き込んだ。それは、相手の体勢を崩すための、武術における「当て」の技術だった。


しかし、その結果はカイの想定を遥かに超えていた。


「グゥンッ!」


牙狼は、まるで赤子が発するような短い悲鳴を上げた。カイの掌が触れた瞬間、その巨体は「く」の字に折れ曲がり、まるで巨人に蹴飛ばされたかのように、勢いよく横っ飛びに数メートルも吹き飛ばされた。そして、近くの巨木の幹に激しく叩きつけられ、ゴシャッ!という鈍い音を立てて、地面に崩れ落ちた。


カイは自分の右手を見つめた。

(力を込めていない、ただの「当て」でこの威力か…)

予想以上の結果に、カイ自身も少し驚いていた。


地面に落ちた牙狼は、一瞬、全身を痙攣させていたが、すぐにむくりと身を起こした。その姿に、カイは感心する。


(タフだな。今の衝撃、普通の獣なら内臓が破裂して即死だろう。骨の一本や二本は折れたかと思ったが…あるいは、この世界の生物は、魔力によって体が強化され、我々の世界の常識よりも遥かに頑丈なのかもしれん)


起き上がった牙狼は、先ほどよりもさらに警戒心を強め、距離を取ってカイを睨みつけてくる。その瞳には、先程までの単純な殺意に加え、目の前の人間に対する畏怖と、それでもなお消えない闘争心が混じり合っていた。グルル…と喉を鳴らし、慎重にカイの周りを旋回し、次の隙を窺っている。


カイは少し考えた。身体能力だけでねじ伏せるのは簡単だろう。だが、それでは芸がない。それに、この世界の理について、もっと知りたいという探求心が疼いていた。


(よし、今度は魔力とやらを使ってみることにしよう)


神様(仮)が「規格外」と称した力の一端を、この強靭な魔獣相手に試してみる。それはカイにとって、危険だが、たまらなく魅力的な試みだった。


カイは、牙狼への警戒は解かずに、意識の大部分を自らの内側へと集中させた。先ほど森の空気中に感じた、温かく強力なエネルギーの流れ。それと同じものが、自らの内にも脈打っているのをはっきりと感じ取れた。それは、血管を流れる血液とは明らかに異なる、もう一つの循環系。魂を中心に、全身を光の川のように巡る、膨大なエネルギーの奔流だった。


(これが、俺の魔力か…)


その流れを、ほんの少しだけ、意識の力で掬い上げる。そして、その掬い上げたエネルギーを、右の人差し指の先へと導くイメージを描いた。すると、体内の温かい光が、命令通りに腕を伝い、指先へと集まっていくのが分かった。指先が、まるで小さな太陽を宿したかのように、じわりと熱を帯び、淡い光を発し始める。


何をすべきか。どんな魔法が使えるのか。カイには全く知識がなかった。だが、不思議と不安はなかった。魂が、その力の使い方を本能的に理解しているような感覚があった。前世で、子供たちが読んでいた物語の一節が、ふと頭をよぎる。


(確か、こういう時は、何かそれらしい言葉を言うんだったな…)


カイは遊び心を込めて、右の人差し指を牙狼に向け、厳かに、しかしどこか楽しげに呟いた。


「火よ、来たれ――ファイアボール」


呪文、というにはあまりにも単純な言葉。だが、その言葉がトリガーとなった。カイの指先に集中していた魔力が、世界の法則に干渉し、現象として具現化する。


指先から、バスケットボールほどの大きさの、燃え盛る火球が生まれた。それは、ただの炎ではなかった。中心部が太陽のように白く輝き、表面では赤い炎がまるで生き物のように渦を巻いている。周囲の空気が熱で揺らめき、ジリジリと音を立てた。


火球は、生まれた瞬間に牙狼に向かって一直線に飛翔した。カイ自身、その威力には半信半疑だった。牙狼に火傷を負わせるくらいはできるだろう、くらいの軽い気持ちだった。


しかし、その結果は、カイの、そしておそらくはこの世界の常識さえも、遥かに超越していた。


ドゴォォォォォォンッッ!!!


火球は、牙狼に命中すると同時、まるで世界そのものが裂けたかのような、耳をつんざく爆音と共に大爆発を起こした。


一瞬、カイの視界は閃光で真っ白に染まった。遅れて、鼓膜を突き破らんばかりの轟音と、全身を叩きつけるような凄まじい衝撃波が襲来する。カイは思わず腕で顔を庇ったが、爆風の威力は凄まじく、数歩後ずさることを余儀なくされた。


爆心地から放たれた熱波が、肌を焦がすように空気を震わせる。周囲の巨木が、まるでマッチ棒のように根こそぎ薙ぎ倒され、空中に舞い上がる。地面は大きく抉り取られ、土や岩が弾丸のように四方八方に飛び散った。


やがて、衝撃が収まり、もうもうと立ち昇る黒煙が風に流され始めると、そこに広がっていたのは、言葉を失うほどの惨状だった。


「なっ…!?」


カイは思わず目を見開いた。


牙狼の姿は、影も形もなかった。おそらく、爆発の中心で一瞬にして蒸発してしまったのだろう。そして、先ほどまで鬱蒼とした森が広がっていたはずの場所が、ごっそりと、直径にして数十メートルはあろうかという巨大なクレーターに変わり果てていたのだ。クレーターの縁では、薙ぎ倒された木々が赤々と燃え盛り、黒い煙を天に向かって吐き出している。


(い、いかん! これはやりすぎだ! 火事になる!)


カイは我に返り、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。目の前の光景は、もはや「魔法」というより「天災」の領域だった。このままでは、この美しい森が丸ごと燃え尽きてしまう。


慌てて、今度は燃え盛る木々に向かって両手を突き出した。先程の要領で、体内の魔力を両腕に集中させる。

(水よ! 鎮火せよ! とにかく、水を!)

頭に浮かんだのは、ただそれだけだった。焦りから、力の制御など全く考えていなかった。ただ、この火を消さなければという一心で、強く、強く念じる。


すると、カイの両手の先に、空間が歪むかのような青い光が集まり始めた。どこからともなく、大量の水が、何もない空間から滝のように湧き出す。それは、ただの水ではなかった。魔力によって生成された、高密度の水の塊が、凄まじい勢いでクレーターとその周辺に降り注いでいった。


ジュウウウウウッッ!という音と共に、炎が次々と消えていく。しかし、カイの意図を超えて、水の量は増え続け、やがて局地的な豪雨、いや、小規模な洪水となって、クレーターをみるみるうちに水で満たし始めた。


「お、おいおい! 止まれ、止まれ!」


カイが慌てて念を止めると、水の奔流はようやく収まった。後には、水を満々と湛えた不自然な池と、水浸しになった周囲の地面、そして鎮火はしたものの、無残に炭化した木々が残された。


「はぁ…はぁ…危なかった…」


カイは額の汗を拭い、大きく息をついた。森の精霊がいたら卒倒していそうな惨状だ。牙狼一匹を相手にするのに、地形を変えるほどの大破壊を引き起こしてしまうとは。


(まさか、ファイアボール一発でこの威力とは…。そして、消火しようとすればこの洪水騒ぎ…。神様(仮)の言っていた「規格外」という言葉に偽りなし、か。しかし、これは力の制御が、想像していた以上に、遥かに難しいぞ)


自らの力の強大さと、そのコントロールの困難さを、カイは骨身に染みて理解した。だが、その口元には、困惑と共に、どうしても抑えきれない獰猛な笑みが浮かんでいた。


「強いのは当たり前。それはいい。だが、これほどとはな。どう使い、どう戦い、そして…どう楽しむか。ふふ、これはますます、骨が折れそうだ――いや、楽しみが増えたと言うべきか!」


カイは、自らが引き起こした小規模な破壊の跡――巨大なクレーターと、そこにできた即席の池を眺め、武者震いを覚えた。この力は、使い方を誤れば、容易に世界を傷つけ、悲劇を生むだろう。しかし、これを正しく制御し、完全に使いこなすことができたなら、一体どれほどの興奮と、どれほどの達成感が待っているのだろうか。


九十年を生きた賢者の魂と、神さえも計算違いをするほどの力を持つ若者の肉体。そのアンバランスな融合体であるカイは、今、途方もない挑戦課題を前にして、心の底から歓喜していた。


「よし、まずはこの力の正確な出力調整からだな。呪文の詠唱ではなく、イメージだけで威力を変える訓練が必要だ。それと、もっと手頃な練習相手を探さねば。今度は、殺さずに捕らえるくらいの芸当を見せたいものだ」


カイは一人力強く頷くと、自らが作り出した破壊の爪痕に背を向けた。そして、破壊を免れた森の奥へと、今度こそ細心の注意を払いながら、しかし、未来への尽きない期待に満ちた足取りで、再び進んでいったのだった。


カイの異世界での本当の意味での第一歩が、今、記された。それは、破壊と創造の始まりでもあった。

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