不明依頼人

八月光

第1話 調査依頼

『山手探偵事務所』は都内某所の雑居ビルの5階に事務所を構える、 業界では中堅規模の探偵事務所だ。ホームページによると『浮気調査、人探し、ストーカー対策、等々、各種の依頼を引き受けます』と記載されていた。大手探偵事務所と比較すれば、人的または物的資源には乏しいが、『良くも悪くも』 大手では目の行き届かない 案件も積極的に引き受け、クライアント第一主義徹底の方針に基づいて、きめ細かくその依頼に応じることで、信頼を得ていた。

「管理者、大変です!」

咲良魅来(サクラミクル)が当探偵事務所・管理者である山手登の元に、両手で抱えられる程度の大きさの箱を携えて、慌てて駆け寄った。

「なにごと?」

また始まったか、というあきれた口調で、山手は訊き返した。ミクルの些細なことでの空騒ぎは毎度のことで、飽き飽きしている、ということだろう。彼女がここに入職してからこの4月で半年強になるが、あしらい方も心得たようだ。ちなみに届いた郵便物の開封と内容確認は、管理者直属のアシスタントである彼女の役目になっている。

「さ、さつたば、が入っています!」

「さつたば?!」

 ミクルは箱の中に入っている分厚い封筒を取り出して、それを管理者に差し出したが、その手は小刻みに震えていた。 これだけの量の札束を見たり手に取ったりしたのは、生まれて初めてだった。

「こ、これです!」

山手がそれを手に取って中を確認すると 確かに札束が入っていた 新札の1万円札が帯巻きされたものが5束入っていた。 ひとつの札束は、その厚さから考えれば100万円と思われるので、だとすると、合計500万円ということだろうか?

「郵送元は?」

「送り主の名前は、見浪弘明(みなみひろあき)と書いてあります。東京都〇〇区からですね」

調べてみたところ、 その住所は〇〇区の、 区庁舎の住所だった。 電話番号も区庁舎の電話代表電話番号が記載されていた。

「この封筒は?」 山手は箱の中の底に入っていた茶封筒を取り出した。

「あ、 初めて気付きました」

封筒の中には1枚の用紙が入っていて、そこには短い文章が印刷されていた。


***


突然の手紙で申し訳ありません。是非、山手様御自身に調査を依頼したい案件があり、相談申し上げる次第です。申し訳ありませんが、下記のメールアドレスに御連絡いただきたいのです。 同封の現金に関しては、 依頼の承諾の有無に関わらずお受け取りください。寄付等で税務処理していただきたく存じます。 依頼をお引き受けいただき、調査費用がその金額を超過した場合は、当然ですが、追加でお支払い致します。多くの案件を抱え、御多忙なのは承知しておりますが、何卒当方の申し出をお引き受け頂きたく存じます。連絡をお待ちしております。


***


「それじゃ、依頼受けさえすれば、調査の結果に関わらず、ごひゃくまん円受け取れる、ということなんですね」

ミクルは、通常より1オクターブは上がっているのではないかと思うほど、甲高い声で言った。自分でもこんな声が出せることが驚きだった。

「そういう意味にも受け取れるが、まだよくわからないな」

「ちょっと、なにグズグズしてるんですか、早くメール送ってくださいよ。他にも同じ内容で依頼状出しているかもしれないですよ!」

「たしかにそうかもしれないが、これだけでは、なんともいえないな」

「そんなこと、このアドレスにメールすればすぐにわかることじゃないですか。ひとりであーだこーだ考えても、話は進むわけないですし、それが管理者のダメなところなんですよ」

「ハイハイ、わかったよ」

山手は記載されていたメールアドレスに送信してみた。依頼を受けたことは大変感謝しているし、殆どの依頼を断らずに引き受けてはいるが、内容によっては引き受けられないこともあると、山手は記載した。

メールの返事は直ぐに送信されて来た。依頼内容は添付の文書ファイルに入れられていて、それを開くためのパスワードは、別のメールで送られてきた。山手はそのパスワードを用いて、添付された文章を開いてみた。


***


メール送信いただき、誠にありがとうございます。山手様に僅かでも関心を持っていただいたことが、私にとって何よりの救いです。

私は見浪弘明と言います。 申し訳ありませんが、現状では、職業や住所など 細かいことは明らかにできないことをお許しください。その上で調査をお願いしなければならないのが心苦しいのですが…。ところで、調査をお願いしたい対象は、現在私が交際している女性です。

その女性を仮にAとしますが、彼女に対して気になることがあるのです。それは、Aが、いわゆる解離性人格障害なのではないか、という疑いです。だとすれば、探偵会社に調査を依頼するのではなく、まずは精神科受診を勧めるべきではないかと、疑問を持たれるかもしれません。

しかし、精神科受診にあたり障害となるのが、Aに解離性同一性障害の自覚が無いことなのです。私は自分で解離性人格障害について調べてみましたが、自覚症状がないことが多いようです。当然ですが、自覚がなければ、自ら受診することもありませんし、私が無理矢理引っ張って受診させるわけにもいきません。

私がそのような疑問を抱いた根拠というのも確たるものではありませんが、疑問の発端となった実例を列挙しますと、ふたりで車に乗っていたところ、突然饒舌になって、脈略のない話を続け、数分後には、何事もなくもとに戻った、また、電話で話しているときに、自分は新聞記者で、Aの秘密を探っているのだと言ったものの、その後しばらく無言となり、何事もなく元の会話に戻った、等の事例があります。根拠と言っても、その程度のことでしかしありませんが、だからこそ、調査をしていただきたいともいえるのです。

そして、Aは私に、全てを打ち明けていません。会うのはホテルのレストランなどがメインで、彼女の住所も教えてくれません。単に彼女が私に心を許していないだけなのかもしれませんが、少なくとも、私が一方的に言い寄っているわけでも、いわゆるストーカーのような輩でも、決してありません。それは、私達が会っている様子を見ていただければ、すぐにお分かりいただけると思います。

仮に、Aが解離性人格障害だとして、それを知ったところで、私がその事実をどう扱うかについては、まだ決めていないというのが、正直なところです。

しかし私は、彼女との交際を真剣に考えていますし、いずれは彼女と結婚することも考えています。例え彼女が解離性人格障害だったとしても、私の彼女に対する思いが変わるわけではありません。あくまでも彼女に対する私の対応を、どのように調節するべきかというレベルの話にすぎないのです。

明日の夜7時から、都内のホテル・グランドビスタ最上階のレストラン、ラ・パレ・シュル・メールで、Aと食事をすることにしています。私たちは、南東の角、窓際の席を取っています。山手様の予約席も取りました。 彼女に山手様の存在が、できるだけ目につかないように、そして不自然さを感じさせないよう、ペアで予約しております。どなたかを同伴させてください。 その場所に来ていただければ、 私は山手様がこの依頼に了承していただけたものと判断いたします。

そして、まずは彼女の様子を観察していただきたいのです。ただし今回に関しては、食事が終わったあとの追跡調査までは、御遠慮ください。

同封した用紙にも記載しましたが、同封した500万円は、調査開始のための初期費用としてお受け取りください。当然ながら調査の結果如何に関わらず、費用返却は不要です。今後も調査によって、費用がかさんだ場合は、さらに追加の費用を支払いします。調査の依頼を承諾していただければ、つまり、 明日の夜、山手様達がレストランに来ていただければ、その後、改めてメールで連絡します。

今回の依頼に関して 私自身は探偵事務所に伺うことができないし、山手様に直接お会いすることもできません。やり取りはこのメールだけにしていただきたいのです。直接お会いすることができない代償として、調査料を前金として同封していると御理解ください。


***


「もちろん引き受けますよね、山手管理者殿」

「しかし、依頼者の正体が分からないままの状況で依頼を引き受けるのは、リスクも大きいと思う」

「私達がそのように思うだろうと依頼者が思ったからこそ、保証という意味で現金を同封してくれたんですよ、依頼書にもそう書いてあったじゃないですか。保証にしてはずいぶん高額だと思いますけど。これだけの現金を郵送するのは、違法なんでしょうけど、受け取り側の私達には、罰則ないはずです、たぶん。とにかく、明日はレストランに行きますよね。いろいろ考えるのは、それからですよ。料理だけでも楽しまなきゃ。おそらく超高級レストランなんですよね。行ったことないからすっごい楽しみ!」

「君が行くのか?」

「管理者直属アシスタントである私以外に、誰が行くっていうんですか、相変わらず失礼ですね! 私だって、連れが管理者じゃなければ、もっと良かったんですけどね!」

「はいはい」

「社長には今回の件を伝えますか?」

「そうだね、それは私のほうから折を見て話しておくよ」

山手としては、彼自身が言及した通り、本来なら姿を見せない依頼者は断るべきだった。過去にも、電話だけで調査依頼を済ませようとする依頼者等の事例もあったが、全て断っていた。そもそも電話やメールだけで調査依頼をしてくるような依頼者というのは、その真剣度や切迫度が決定的に低い。依頼者と直接会うことで得られる情報というのはかなり大きいし、むしろ依頼者の状況が依頼された調査を解決する最も重要な手がかりになるとも言えた。正し今回は事情が違う。前金として500万円もの大金が送られてきた。さすがに、前例のないことだった。お金が全てではないが、依頼者の真剣度のひとつの尺度にはなるだろう。あるいは、 犯罪がらみの黒い金かもしれないが…。

山手自身は解離性同一性障害(DID)の人を見たことがないし、依頼状から推察する限り、依頼者もそうだろう。依頼者の女性Aに対する疑いは、単なる思い過ごしの可能性も十分にあり得たが、依頼内容としては、経験したことのないものだったので、既にそれ自体が、興味を惹かれる大きな要因となっていたが、経験したことのない仕事であれば、調査に失敗するリスクも高かった。人格乖離の証拠が掴めればよいが、そうでないときに、どこまで調査を継続した段階で結論を下すべきか、それが問題だったが、とにかく明日、交際者と依頼者の 2人の様子を見てみることが先決だと山手は思った。

山手にはもうひとつ気になる点があった。 依頼者が山手登を名指しで指名してきたことだった。 記憶をたどってみたが今回の依頼者と関連するような案件が、過去にないかどうかを考えてみたが思い浮かばなかった。 いずれにしても、明日の夜に多少の手がかりが得られることを期待するしかなかったが、すでに彼自身も、この案件に興味を抱き、楽しみにしている、とも言えた。



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