ランナー

選択肢、なし

 二人の喧嘩はいつも些細なきっかけで始まる。

 鬼崎佑介きざきゆうすけが原因を作って、それに陸院雄輔りくいんゆうすけがつっかかることがいつもの展開である。

「キスケ、お前また洗濯を忘れたな?」

 この日の原因もやはりキスケであった。

 キスケ、というのは鬼崎佑介のあだ名である。

 名前が同じ『ゆうすけ』同士であり、当初、どちらが『ゆうすけ』と呼ばれるかを決めた際に中々結論が出なかったことから妥協案であだ名で呼ぶことに決まった。

 そのため、陸院雄輔はリクスケと呼ばれている。

「何故こうも毎回の如く忘れるんだ。嫌がらせか?」

 リクスケは洗濯カゴをテーブルの上に乗せると、その端正な顔を神経質に曲げて怒鳴った。

「だからずっと言ってるじゃねーか! 悪気なんてねぇよ、忘れちまったもんは仕方ねぇだろ!」

 昼食を終えてからというもの、時計の長針と短針が右上に向かって直角を作るまでソファに寝転がっていたキスケが飛び上がって怒鳴り返した。

 二人の喧嘩の流れはいつもこうである。一方が怒鳴って、もう一方が怒鳴り返す。これが猫の喧嘩であったなら多少の可愛げはあるだろうが、高校生男子二人の喧嘩ともなればたまったものではない。

「お前はいつもそうだ。反省していると言うのなら、二度と忘れるな」

「ふっざけんな、誰だって忘れるもんは忘れるだろうがっ」

「はんっ、僕は忘れないけどな。お前の小さな脳みそを基準に物事を考えない方がいいんじゃないか?」

 ああ言えばこう言う。こう言えばああ言う。

 不毛な上に終わりの見えない言い合いを、ある意味終わらせるのはキスケの役割である。

「てんめぇ! 今日という今日こそぶん殴ってやる、歯食いしばれ!」

 そう。このように拳に出ようとするところがキスケの短所であり、弱点である。

「やれるものならやってみろ、お前のノロマな拳なんて当たらないがな」

 そして、それに乗っかってしまうのがリクスケの短所であり、弱点である。

 握り込んだ右拳を持ち上げ、キスケが見下ろす。それを姿勢を落として軽やかなステップを左右に刻むリクスケが迎え撃つ。

 一触即発。

 ゴングでもあれば打ち鳴らしてしまいたくなる状況に、ゴングではなく、一つのチャイムが鳴らされた。

 突如として鳴らされた電子音の呼鈴に、両雄は動きを止める。

「ちっ……一旦休戦だ」

 睨み合っていた視線を相手から逸らし、キスケは舌打ちをしながら玄関へと向かった。

「はーい……って、ぜんさんじゃないっスか。なんか用っスか?」

 玄関扉の向こうに立っていたのは安藤善次あんどうぜんじ、二人の住むアパートの大家兼管理人である。八十手前の老人であるが、焼けた小麦色の肌に筋肉質で太い腕をした若々しい男である。

 彼は出迎えたキスケを見ると、小麦の肌とは対照的な真っ白な歯を剥き出して笑った。

「今日はお前らに用があって来たんだけどな、ちっと上がっていいか?」

 口では許可を求めるが彼の身体はすでに部屋の中へと半分ほど入っている。

「ええ、構いませんよ。荷物、お預かりしましょうか?」

 いつの間に来たのか、三和土に立つ善次にリクスケが手を差し出す。

 ちゃっかりしているとでも言えばいいのか、キスケは彼のそんな姿に感心しつつも呆れを覚える。ちょっと前まで洗濯物ひとつで腹を立てていたくせに、と。

「こんくらい構いやしねぇよ。話ついでに様子見に来ただけだからな」

 善次は断りを入れると、リクスケを押しやり居間やトイレ、風呂の中を簡単に見て回った。最後にテーブルの前へどかっと座り込むと、サボテンの毛ほどにしか生えていない顎髭を撫でて難しい顔をした。

「……しっかし、部屋は綺麗なんだがな」

「それで、一体何のご用でしょう?」

 そんな意味深でありながら不可思議な態度を怪しく思いつつも、リクスケは訊ねた。

 善次はかいた胡座を右手で叩くと、意を決したように言った。

「おう、お前らのことでな苦情が来てるんだ」

 その予想外な一言に二人は顔を見合わせた。

「苦情って?」

 なぜそれが意外であったかと言えば、彼らはマンションのルールを他の住民よりも守っている自信があったからだ。ゴミ捨ての時間は必ず守るし、曜日を間違えたことは一度もない。すれ違う相手には必ず挨拶は欠かさないし、共用部分の清掃があると聞けば必ず参加していた。言っては何だが、優良住民である自分たちに何の苦情が来ているのかさっぱり分からなかった。

「騒音、さっきもだけど喧嘩の声が五月蝿えって話だ」

 あぁ、そんな声が吐いた息と共に出た。

「今も聞いてたけどよ、どうやら事実みてえだからオレが来た」

「あっ、わかったっスよ! リクスケの奴のネチネチ言う声がうるさかったんすよね!」

 騒音という言葉に納得のいった二人であったが、しかしお互いにその言葉が自分を指しているとは思わなかった。

「キスケ、お前は声が馬鹿でかいんだ。ちったぁ静かにしろ」

 他人事、そんな態度のキスケに善次は一喝する。ルームメイトの情けない姿を見たからか、リクスケは鼻を鳴らした。

「だから言っただろう。単細胞ですぐ喚くからだ」

「んだとぉ!」

「やめろ!」

 この年頃の男子というのは扱いに難しいもので、半端に社会性は付いてきても中身はちょっと前まで中学生だった子供だ。

 善次はため息をひとつ吐いてから、二人を睨みつける。

「リクスケ、お前もだ。というか、お前ら二人とも十分五月蝿え」

「すみません…」「ごめんなさい…」

 善次にとって有難いことがあるとすれば、この二人がそれでも素直であったことだろうか。

「このままだと、お前らにゃ部屋を出てもらわなきゃならねえ」

「出てくって、なんで! これからは必ず静かにしますよ」

 あまりに唐突な対応にキスケが食ってかかる。

「お隣さんが五月蝿すぎて病んだ」

「えっ」

「お前らが五月蝿いせいで病んだ」

「……なんと、謝ればいいのか」

 またまた衝撃的な事態に二人は唖然とする。

「さすがにこうも実害が出ちゃ庇いきれん。向こうさんからは『謝罪は必要ないから出ていけ』と言われてるんだがな、オレもお前らの事情を知ってるもんだから仰せのままにとはいかない」

 善次は人差し指を立てて、リクスケたちを指差す。

「そこで、だ。お前らにあることをやってもらおうと思う」

「あること、とは?」

 リクスケが聞いた。

「このマンションではよくトラブルが起きていてな、お前らにはそれを解決してもらいたい。内容はご近所トラブルもあればトイレ詰まりの解消まで。言わば便利屋、もしくは何でも屋になってもらいたいんだ。お前らが周りに迷惑かけた分、お前らが身体で支払っていく」

「なるほど。ちなみに、それを断れば……」

「一も二もねえ、出て行ってもらう。それが嫌なら便利屋をやる。向こうさんともそれで話をつけてあるからな」

「それって、選択肢ないじゃないっスか!」

 あまりに容赦のない対応にキスケが嘆くが、善次は加減せずに続ける。

「当たり前だろう! あと言い忘れたが、住民からの依頼を受けたら特別な理由がない限りお前ら二人で対応すること。オレが考えるに、お前らの喧嘩の原因は協調性のなさにある。これを機に、二人の仲を深めるんだな」

 その条件にリクスケは慌てて

「そんな、キスケとでは出来ることも出来なくなりますよ!」

「お前、失礼って言葉を母ちゃんの腹の中に忘れてきたのか?」

「生憎、お前に対して売り切れなだけだ」

 なおも学ばない二人に善次はため息を吐く。

「そう喧嘩するんじゃねえって言ってるだろうが。もう一つ言い忘れたがな、次うるさくしたら問答無用で追い出すからな」

「すみません」「ごめんなさい」

 さすがのキスケたちも即座に謝罪を口にした。

 二人が下げた頭の後ろを十分に見ると、善次は胡座を崩して立ち上がった。固まっていた身体を伸ばし、肩をぐるぐる回すと玄関へ向かって歩き出した。

「じゃ、そう言うことだ。最初のうちはオレの所に来た依頼をお前らに連絡するから、それでやること。勿論、やれば給料も出すから安心しろ」

 その言葉だけを残すと、善次は玄関扉から出て行ってしまった。

 しん、と静まり返った部屋の中で事の発端であった洗濯カゴの存在を忘れて二人は見つめあった。お互いに相手を見るが、その不安気な表情に答えを求めても何も見つかりはしなかった。

「……どうする?」

 キスケが口にすると、その言葉はあまりに情けなく響いた。

「……どうしような」

 やはりそれに返事するリクスケの言葉も、部屋の中に情けなく響いていた。

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