第5話
家を出て舗装された道から山道に入り、緩い傾斜道をしばらく進むと、視界は緑で覆われる。
天に向かって高く伸びた木々の枝が大きく横に広がり、瑞々しい葉を茂らせ、湿った地面に咲く小さな野花と、成長しきって食べるには美味しくない山菜を見つけたレイスティーは山にも町より一足遅い春の訪れを感じた。
深く呼吸をすればまだ冷たい空気が春の匂いを一緒に連れてくる。
風が吹く度に微かに音を立てて揺れる木々、心地よい静寂の中で時折聞こえてくる小鳥の囀り、小さな生き物達の息遣いを感じる山の中はいつもレイスティーの心を落ち着けてくれる。
常に喧騒としていたサンスタットとは大違いね。
騎士団本部がある王都サンスタットは常に喧騒としていた。
王城を目と鼻の先に構え、国と国民に奉仕し、犯罪を抑制し、犯罪から国民を守るために組織されたフォトガルオス騎士団は厳しい訓練を受け、試験に合格した者のみが入団を許される。
屈強な騎士達で構成された騎士団組織が存在していても犯罪はなくならない。
常に何かしらの事件事故を追い掛けていたあの頃と比べるとこののどかな日常が物足りなく感じることもあるが、平和が一番。
時間の流れが緩やかなこの町に細胞が慣れ過ぎて今更サンスタットに戻るなんて考えられない。
時折現れる不審者や軽犯罪者の確保し、町の警吏に協力するくらいで調度良いのだ。
『君がいてくれて良かった』
騎士団の仕事の最中、そんな風に言ってくれたのはいつだったか。
落ち着きのある低い声を思い出し、レイスティーはまた胸が苦しくなる。
「いやいや、もう忘れるの。忘れろ」
己に必死に言い聞かせるのもここに来てもう何度目か。
「さて、さっさと薬草集めて帰ろう」
レイスティーが意気込んだその時、ふわりと吹き抜けた風に混ざって甘い匂いが鼻に触れた。
「…………気のせいよね」
本当に未練がましくて嫌になる。
一瞬だけ、微かに感じたラベンダーのような香りが脳裏に再び彼を思い起こさせた。
「日が暮れるわ。薬草、薬草」
レイスティーはお目当ての薬草が生えている場所まで移動する。
近くに沢があるので水の流れる音を聞きながらの作業だ。
連日の雨で増水しているせいか、水の音が激しく、重く聞こえる。
「くさっ」
持って来た籠に薬草が一杯になる頃、レイスティーの手は薬草の汁で濡れていた。
被れないように手袋をつけてはいたものの、薬草独特の強烈な匂いに鼻が痛い。
「そろそそ戻ろうかな」
今から戻れば診療中なのでまだ患者もいるし、仕事も沢山ある。
「先ずは着替えて、薬草はヒュートに渡してそれから……」
立ち上がって身体を伸ばし、帰ってからの段取りを考えているた時だ。
ぶわっと風に混じって不快な匂いが漂う。
「何……この変な匂い……」
レイスティーは強い匂いに鼻を袖で覆った。
砂埃を被ったような、泥の溜まった場所に顔を突っ込んだ時のような匂いと、その中に感じる木の匂いだ。
森に入った瞬間の清々しい緑の香りとは違う。
それが風に乗って鼻孔を刺激する。
するとゴオォォォォと聞き慣れない音が遠くから聞えてきた。
そして微かに地面が震えているのを感じ取り、レイスティーは籠を腕に抱える。
「地震?」
足元の揺れはほどなくして収まった。
それを確認して足早にその場を離れる。
「診療所や町のみんなは大丈夫かしら……」
何だか胸が騒がしくなる。
辺りを取り巻く空気も、不気味な静寂も、何だが嫌なことの前触れのような気がして落ち着かない。
早足で山道を下り、見慣れた遊歩道に出ると診療所が見えた。
特に異常はないようでレイスティーは安堵する。
思い過ごしだったわね。
しかし、さっきの地震をみんなが感じたのか、診療所内から患者が一時的に外に出ているようだ。
「レティ! 先生、レティだ! 無事だよ!」
患者の一人が大きな声で叫ぶ。
顔見知りとなった患者達が大袈裟なくらい安堵しているのが分かり、レイスティーは不思議に思いながらも小走りで診療所に戻った。
午後にしては患者の人数が多い気がする。
「無事で良かった! 怪我はないか⁉」
診療所の中から飛び出したユハンに抱き締められ、レイスティーは困惑する。
少々過保護な質だが、大袈裟である。
「大丈夫、大袈裟だって。ほら、薬草も無事で……」
「地すべりが起きたんだ! 山小屋が一軒、流された!」
その言葉にレイスティーは唖然とする。
みんなが不安そうな顔でそわそわとしていることに気付き、レイスティーは自分の呑気さが恥ずかしくなった。
じゃあ、さっきの異様な音は地すべりを起こした音だったの?
山の中で聞いた異様な音と匂いを思い出し、レイスティーはゾッと背筋を震わせた。
「流され家の人は⁉ 無事なの⁉」
「今ヒュートが役場に状況を確認しに行ってる。怪我人は今の所でていないが、いつまた地すべりが起こるか分からない」
この診療所付近は比較的安全な位置にあるので、みんなが一時的に避難しているとユハンは言う。
「親父!」
肩で息をしたヒュートがレイスティーとユハンに駆け寄る。
「レティ、あぁ、無事だったか……良かった……」
「私は平気よ」
「状況はどうだ?」
ユハンの問い掛けにヒュートは青い顔をする。
「流されたのはゴートンさんの山小屋だ」
お昼に息子のラントを連れてやって来た男性の名前が飛び出した。
「ゴートンさんは無事だったが……」
「まさか……」
嫌な予感にレイスティーの胸がぞわぞわと騒ぎ出す。
「繋いでいたラントの手を途中で……そのまま土砂で流されちまったらしい」
「そんな……!」
ユハンが膝から崩れ落ち、肩を震わせる。
その報告を聞いた周囲の人々も幼い子供を想って涙ぐんだ。
「ゴートンさんは流された土砂の浅い場所にいたからすぐに見つかったが……ラントは……」
ヒュートが悲愴な面持ちで言葉を切る。
『お姉ちゃん、ありがとう!』
ニコニコと手を振るラントの姿を思い出し、レイスティーは胸が締め付けられた。
自分に向けられた笑顔は生き生きと輝いていて、その姿がレイスティーに力を分けてくれた。
あの愛らしい笑顔にもう会えないのかと思うと苦しくて仕方がない。
いや……まだ、助けられるかもしれない。
「伯父さん! 私、行ってくる!」
「待ちなさい、何かあったらどうする⁉」
ユハンの言葉にヒュートが同意する。
「そうだ! あれだけの土砂の中からどうやって探すつもりだ? 無謀過ぎる! 今町長が救助隊の要請に向かったから―――」
「災害が起きた時、生存が期待できるのは災害発生から四十八時間。だけど、実際の場合はもっと低い。子供であるなら尚更」
レイスティーははっきりとした口調で告げる。
薬草の入った籠を地面に降ろし、編み上げのブーツの紐を縛り直す。
「救助隊の到着なんて待てない」
「じゃあ、どうするつもりなんだ」
「魔力の痕跡を辿る」
魔力には使用者による匂いがある。
レイスティーは使用者によって異なる魔力の匂いを嗅ぎ分けることができる。
嗅ぎ分けられるのは魔力の匂いだけで、人の体臭の識別は困難なので警察犬のようなことはできないが、魔力を辿ってラントを見つけ出すことは出来るかもしれない。
「待て、ラントは俺達と違って魔力はないぞ」
ヒュートが残念そうな表情を見せる。
この町で魔力を持っているのはユハン、ヒュート、レイスティー、そして町長のガハムだけだ。
「ラントには魔力はないけど、昼に伯父さんの治癒術を受けてる。私なら追えるわ!」
レイスティーはそう言って駆け出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます