第十四話:妙心尼の知恵、オコゲの導き


 源三からもたらされた「吉三郎」という名と、彼が悩んでいるらしいという情報は、八重にとって大きな手がかりとなった。


 伊勢屋に託した手紙がまだ渡せていない状況で、別の角度から吉三郎の様子を知ることは、八重の焦りを少しでも和らげる助けになるかもしれなかった。

 数日後、八重は再び円林寺の妙心尼を訪ねた。源三から聞いた話を伝え、吉三郎が本当に姉の想い人なのか、そして今どのような状況なのか、何か知っていることはないかと尋ねるためだった。

 妙心尼は、八重の言葉に静かに頷き、いつものように落ち着いた声で語り始めた。


「やはり、吉三郎でしたか。 あの子がこの頃、心を痛めているのは確かです。

 大方、お七さんのことでございましょう。 あの子もまた、お七さんのことを忘れられずにいるのです」


 その言葉に、八重の胸にチクリとした痛みと、ほんのわずかな安堵が同時に込み上げた。

 姉の想いは、一方的なものではなかったのだ。吉三郎もまた、姉のことを……


「では、なぜ……」八重が問いかけると、妙心尼は静かに首を横に振った。


「お七さんの想いが真実であるなら、吉三郎様もいつか必ず応えてくださるはずです。 なれど、今は時が悪い。 あまりにも悪すぎます。

 寺の戒律、小姓という立場、そして……あの子が背負っているもの。 今は、ただ静かに時を待つしかないのかもしれませぬ」


 妙心尼の言葉は、八重に希望を与えると同時に、厳しい現実をも突きつけた。

 吉三郎も想ってくれている。 しかし、だからといって、すぐに二人が結ばれる道が開けるわけではない。

 むしろ、その想いが二人をさらに苦しめることになるのかもしれない。


「八重さん、焦りは禁物です。 けれど、お七さんの心の火が消えぬよう、あなたが支えてあげることも大切。

 難しい役目ですが、あなたならできると信じておりますよ」


 妙心尼の温かい眼差しに、八重は勇気づけられる思いだった。 寺を辞去しようとした時、本堂の縁側の隅で、全身真っ黒な猫が香箱座りをしているのが目に入った。オコゲだった。

 オコゲは、八重を一瞥すると、すくりと立ち上がり、まるで「ついてこい」とでも言うかのように、ゆっくりと寺の裏手へと歩き出した。


 八重は、何かに導かれるように、オコゲの後を追った。 オコゲは、時折振り返りながら、人気のない裏門を抜け、寺の敷地の外れにある小さな林の中へと入っていく。 そこは、昼間でも薄暗く、人の訪れることも稀な場所だった。


 林の奥、一本の大きな松の木の根元で、オコゲはぴたりと足を止めた。 そして、八重の方を振り返り、小さく「にゃ」と鳴いた。

 その視線の先を追うと、八重は息をのんだ。

 そこに、吉三郎がいた。

 彼は、一人で松の木に背を預け、じっと遠くの空を見つめていた。 その横顔は、以前に見た時よりも痩せこけ、深い苦悩の色を浮かべている。


 何かを必死に耐えているかのような、痛々しいまでの表情だった。


(吉三郎様……)


 八重は、物陰からそっと彼の姿を見守った。 声をかけることはできなかった。

 しかし、彼のあの苦悩に満ちた表情は、妙心尼の言葉を裏付けるものだった。

 彼もまた、姉のことを想い、そしてその恋に苦しんでいるのだ。


 しばらくすると、吉三郎は深いため息をつき、力なく立ち上がって寺の方へと戻っていった。その背中は、年の頃よりもずっと小さく、頼りなく見えた。


 オコゲは、いつの間にか八重の足元にすり寄り、その毛並みを八重の足にこすりつけていた。 まるで、八重の心を慰めるかのように。

 八重は、オコゲの頭をそっと撫でながら、改めて決意を固めた。

 やはり、手紙を吉三郎に渡さなければならない。 そして、姉の真の想いと、その危険な状態を伝えなければ。 たとえそれが、彼にさらなる苦悩を与えることになったとしても。


 吉三郎の苦しむ姿を目の当たりにしたことで、八重の心は定まった。

 姉を救うために、そして、もしかしたら吉三郎をも救うために、自分にできることを全力でやらなければならない。


 オコゲの不思議な導きは、八重に新たな覚悟を促したのだった。


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