敢えて言おうか『月がきれいですね』と
ポチョムキン卿
愛を告白したつもりはなかった
月が綺麗ですね。
そんな一言を誰かに伝えたい夜がある。
駅までの帰り道、信号待ちのあいだ、ふと夜空を見上げて、満月が雲の切れ間にぽっかりと浮かんでいたとする。
何気なくとなりの人に「見て、月が綺麗だよ」と言いたくなる。
なんの深い意味もない。
ただの感想だ。
今日の月は見応えがあるなあという、それだけの感動を分け合いたいだけなのに、どうしても頭の中に“彼”が現れてしまう。
夏目漱石だ。
中学校の国語の授業で聞かされたエピソード、「“I love you”を“我君を愛す”と訳すのは不自然だ。日本人なら“月が綺麗ですね”と言うべきだ」。
生徒たちの間に小さなざわめきが起きた。
私もその一人だった。え、それって……つまり愛の告白?
先生は「日本語の情緒っていいよねえ」と嬉しそうに笑った。
ちょうど思春期まっさかりの頃で、そんな婉曲表現にときめきと照れを感じていた。
あれから年月が流れた。だいぶ大人になった。
文学にも、多少の教養にも触れるようになって、漱石のその話が逸話の域を出ないこと、実際の出典は不明瞭で、創作の可能性が高いということも知った。
だが困ったことに、その“伝説”だけは生き残っている。
おそらく多くの日本人が、誰かの口から「月が綺麗ですね」と聞けば、一瞬立ち止まり、意味を探ろうとするだろう。
「えっ、それってもしかして……私のこと、好きってこと?」
そんな反応を想像してしまって、私は口をつぐむ。
私はただ、目の前の月が美しいと伝えたいだけなのだ。
愛してもいない、恋をしているわけでもない。
ただ、いい月だと思った。
空気も澄んでいて、色も形も文句なし。
そんなときは、誰かとその感動を共有したいと思うのが人間というものだろう。
なのに、言葉のひとつひとつに過剰な意味が宿るこの世界では、単純な感情の表現ですら、慎重にならざるを得ない。
便利な言葉は、便利すぎるがゆえに、使いづらい。
漱石が“言わなかったかもしれない言葉”は、いまや呪いのように漂っている。
月を見るたびに、私は「これは使っていい言葉だろうか」と躊躇する。
心に浮かんだ言葉を素直に出すだけのことが、こんなにも難しいとは。
こうして、気の利いた言い回しを探してあぐねているうちに、月は雲に隠れ、夜風が吹いて、伝えるタイミングは逃されてしまう。
「月が綺麗ですね」と言えば愛の告白になり、「夜空が明るいね」と言えば味気なく、「満月だね」とだけ言ってみても、どこか他人行儀で、感動がこぼれ落ちてしまう。
たまに思う。漱石が言ったというあの話は、日本語に対する一種の挑発だったのではないかと。
「I love you」は、「我君を愛す」でもなければ、「月が綺麗ですね」でもなく、自分の言葉で伝えろ、と。
つまり、「模範解答に逃げるな」という教えなのかもしれない。
そう考えると、余計に“漱石の訳”を使うことがためらわれる。
私の言葉でなければ意味がないのだ。
ある晩、職場の後輩と二人で帰る途中、また満月に出くわした。
街灯よりも明るく見えるような、完璧な月だった。
「あ、今日すごいですね」と彼女が言った。
その声色が、ふだんより少し優しかった。
「綺麗な月ですね」と私が返したら、彼女は笑って「……それ、告白ですか?」と返してきた。
私は笑って首を振った。「ううん、ただ、ほんとに綺麗だなと思っただけ」
でも、あれは本当に“だけ”だっただろうかと、今になって思う。
たしかにそのときの私は、彼女に特別な感情を持っていたわけではなかった。
ただ、自然とそう言葉が出たのだ。
けれど、彼女の方はその一言を“呪文”として受け取ってしまったのかもしれない。
もしくは、私の中にも、気づかないうちに漱石の影がささやいていたのかもしれない。
あの夜を境に、彼女との距離が少しずつ近づいていった。
帰り道が重なるたびに、他愛ない会話の中に互いの輪郭が見えてくる。
ランチのときに目が合う回数が増えた。
ちょっとした冗談が、お互いにとって嬉しい出来事になっていった。
思えば、あれが“始まり”だった。
たった一言、「月が綺麗ですね」。
その言葉が、なにかの扉を開けたのだ。
そうして数年後、その彼女は私の妻になった。
結婚してからも、たまに彼女は言う。
「ねえ、“あのときの月が綺麗ですね”って、やっぱり告白だったんじゃないの?」
私は「違うってば」と笑う。
でも、どこかで「そうだったのかもな」と思っている自分もいる。
どちらが正しいかなんて、もはや問題ではない。
ただ一つ確かなのは、あの一言が、二人の距離を変えたということだ。
思えば私はずっと、「月が綺麗だと素直に伝えたいのに、夏目漱石が邪魔をする」と思っていた。
けれども、もしかすると本当はその逆だったのかもしれない。
あのとき“漱石の呪縛”があったからこそ、言えた言葉だった。
もしもあのフレーズにロマンの影が差していなければ、私はあんな気の利いた一言を発することもなく、ただ「今日は満月ですね」くらいで終わっていただろう。
“月が綺麗ですね”という言葉には、漱石の亡霊が棲んでいる。
だがそれは、ただの亡霊ではなく、ときに人と人とを結びつける恋のポリネーターでもある。
たしかに呪いのようでもあるが、それが人を動かすなら、いっそその呪いに乗ってみるのも悪くない。
いまでも、たまに月が綺麗な夜があると、そんな夜は、となりにいる妻に向かって、私はもう一度言う。
「……月が、綺麗だね」
彼女は何も言わずに微笑む。あの夜と同じように。
もしかすると、これはやっぱり、漱石先生の“悪戯”なのかもしれない。
いや、“祝福”と呼ぶべきなのだろうか。
そう思いながら、私は静かに空を見上げる。
今日も月は、どうしようもなく綺麗だ。
敢えて言おうか『月がきれいですね』と ポチョムキン卿 @shizukichi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます