prologue.「嘘の名前」

 その夜、東京には雨が降っていた。


 


 六月の終わり。

 湿った空気が、ネオンをにじませる。

 交差点を歩く人々の誰もが、傘を持ち、下を向いていた。

 街は、誰の顔も覚えようとしない。


 


 榊真澄(さかき・ますみ)は、その雑踏のなかにいた。

 ひとりの男の名を、静かに探していた。


 


 名前は、如月 燈(きさらぎ・ともる)。

 いや、それが本名かどうかすら怪しい。

 榊がその名前を知ったのは、警視庁公安部の調査ファイルの中。

 分類は「非協力的参考人」。

 容疑は不明。目的も不明。


 


 ただひとつ、確かなことがあった。

 ——彼は“死んだ”ことになっている。


 


 榊は、嘘を許さない男だった。

 正義感でも潔癖でもない。

 ただ、嘘を見破れなかった過去が、彼の背中を焼いていた。


 


 だから、今度こそ目を逸らさない。

 この男の嘘の名前の奥にある、「ほんとうのもの」を見つけてやる。


 


 彼の心には雨が降っていた。

 ずっと、止まないままだった。


 


 だがそのとき、

 夜の路地に、一瞬だけ、タバコの火が灯った。


 誰かが、そこに立っていた。

 細身の男。濡れた髪。

 見覚えのある、横顔。


 


 榊は歩みを止めた。

 男がこちらを見る。


 


 ——如月 燈。

 ——偽名の亡霊。


 


 そして、再会という名の火種が、音もなく落ちた。


 


 それは、すべての始まりだった。


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