Hair of dog

門号芽理

第1話

 日に焼けた足が自動販売機の光に照らされて悲しく光っている。俺はため息をつきながら飲みたくもない水を買った。今から大学時代の友人とその知り合いの飲み会がある。大学時代といっても、まだ俺は社会人生活を始めて1ヶ月しか経っていなかった。平日は研修に行って社会人の基礎という、あるのかないのか分からない概念を学び、自分の知能の限界に気付かされ続けていた。

 大学時代の友人は秀吾と言う。秀吾は元々金髪だったが最近黒髪になった。馬面だが、ノリの良さと底知れないバカさで女性にモテている。本人も女好きだ。今回の飲み会を持ちかけてきた時も電話越しでも興奮気味な様子が伝わってきた。

「俺のバイト先に結構可愛い子がいるんだけど、ほら、前話した咲ちゃんって子、同い年の。その友達が俺と飲みたいってさ、で、ほら、隆太も呼ぶわっていったら咲ちゃん乗り気でさ、咲ちゃんも友達もノリが良いから絶対楽しい会になるって言うんだよ。」

俺は話を合わせたが、いまいち乗れなかった。それには明確な理由があった。

 新宿の南にあるチェーン店の居酒屋を入ると奥の方にバチバチにオシャレした秀吾が見えた。その向かいには女性が二人座っている。今日は土曜夜だから店はかなり賑わっていてなんだか面食らった。店員に待ち合わせだと告げ、席に座り二人の女性に挨拶をした。

「咲ですーよろしく。」

「流花です。」

2人は話しやすそうな雰囲気を持っていた。咲は社会人1年目と思えないほど明るい髪色で、小動物のような顔が人懐っこい印象を与えた。流花という方は俺とは話が合わなそうな感じがした。不健康なほど白い顔で美人ではあるが、睨みだけで人を殺せるほどの鋭い眼をしていた。俺と同じで他人を信用しない人間な気がする。そういう人間同士は気が合わない。咲は一目見た瞬間から仲良くなれる気がした。だけど、それでも俺の心は高鳴らなかった。

「咲ちゃん、こいつが、つい最近まで沖縄にいた隆太ってやつ。こいつ沖縄で彼女作ったんだけど東京戻る直前に別れてさ、暗いから酒の力で盛り上げてあげてよ。」

俺は「別に暗くないから。」と言って卑屈にへへと笑った。だけど俺が今回の飲み会を、いや、最近の何事においても楽しめないのはまさにそれが原因だった。

 


 他人の言葉で語られる恋愛は陳腐に聞こえる。沖縄で彼女を作って東京に戻る直前に別れる、という1行でまとめられれば、よくある、大人になるために誰もが経験するような、平凡な恋愛だろう。だが、自分視点だとそれは何よりも神聖で何よりも悲劇的な経験だった。その人は俺が知っている誰よりも純粋で、誰よりも正義を貫いていた。沖縄の夕陽に照らされた顔は日に焼けていて、奥二重の目が細くなる笑顔は海に反射する太陽の光みたいに心を暖かくさせた。彼女と過ごしたのはたった4ヶ月だったけど、生まれて初めて自然体の自分でいられた時間だった気がする。誕生日プレゼントとしてもらった、沖縄の石が青く輝くリングは今でも捨てずに机の中にしまっている。あの時期、彼女と過ごした時期の自分以外、自分じゃない気がしてしまう。今俺は過去の亡霊として生きているだけだった。

「おーい、次のレモンサワー来たよー」

目の前の咲に話しかけられてはいはい、と言ってレモンサワーを口にした。その横の流花は何かを見下したような顔で酒を飲んでいる。とりあえず今日は酒を飲もう。俺は馬鹿騒ぎでもしようかという気持ちになってきていた。咲が何かを期待するような目で俺を見ていた。



 鏡を見ながら咲がメイクをしているのを横目に感じつつ、ぼんやりとカーテンから漏れる朝日を浴びていた。白い部屋は気の抜けた炭酸のようだ。昨日、2軒ハシゴしてダーツをして気づいたら咲とホテルにいた。咲は人懐っこいけど、俺の事が好きって訳ではなさそうだった。良く言えば、大人同士でしか成立しないゲームをした。悪く言えばヤケクソな夜だった。

私用事があるからもう出るね、と言われて気をつけて、と言った。1人残された部屋で俺は水を飲んだ。10分くらい昨日の夜のことを考えた。酒でほとんど飛ばしている記憶の断片を辿って咲の言葉を思い出した。なんだか、俺のことをかなり褒めていた気がする。思い出せ。だけど3回くらい不機嫌そうな流花の顔が浮かんだ。秀吾が後半頭に何かを巻いて踊っていた気がする。あれは何だったんだ。あとで秀吾に聞こう。そう思いながら靴下を履いた。



 あの日のことは秀吾も覚えてないと言った。俺は馬鹿らしくなって携帯をベッドに投げ捨てた。大学3年からこの部屋に1人暮らしを始めたが、もうそろそろ引っ越したい。配属先が決まったら引っ越そうか。考え事をしていると頭に沖縄の海の映像が浮かんで、不愉快な後味を覚えるだけなので、俺は眼を閉じて寝た。黒い影に刺される夢を見た。気持ちが悪いことに刺された瞬間、俺は救われたような気持ちになっていた。目覚めるともう夕方だったので、たまには1人で外食でもしようかと外に出た。もう、彼女のこともこの前の飲み会のことも忘れてしまいたい。そう思って家を出た。近くに10席ほどしかない、地下の居酒屋があった。ここは新宿から20分ほどの街だが、住み始めた当初から隠れた両店がいくつもあるような予感がした。そしてここは6ヶ月ほど前に見つけたのだった。店に入ると無愛想な店主の顔が見えた。沖縄に行ってから初めて来たというのに、再会の言葉はなかった。だが、そういうところがこの店の好きなところでもある。知らない新人バイトに導かれ、席に座り、ハイボールと刺身を頼んだ。木の質感を活かした店内を見渡すと数ヶ月前の自分が隣に座っているようだった。あの時の俺はただ気取っていた。理論を持って生きているような気分でいた。だけど今思えば空っぽだった。信念も苦しみも無いくせに、何かに足を掴まれ、もがいていた。もしかしたら1、2年後に今この時を振り返っても同じように思うのかも知れない。人生は知らない苦しみを知ることの繰り返しなのかもしれない。追加で頼んだ馬刺しを食べた所でもうこの店にいたくなくなってお会計を頼んだ。何のために生きているのか分からない。店を出て階段を登る最中、靴紐が解けた。俺は小さく舌打ちをしながら、歩みを止めず、登り切ったところで屈んで靴紐を結んだ。ふと、何か知らない記憶が頭を掠めた。何だろう、最近、同じような事があった感じがした。流花の顔が浮かんだ。なぜ、咲ではなく流花なのだろうと思った。記憶が、無くなりかけのシャンプーのようにドロっと脳の奥から漏れ出てきて、ある場面をぼんやりと思い出した。流花が俺の靴紐を結んでくれた。どこか暗い道の上だった。流花も俺も屈んでいて、下を向いた流花の長い髪の毛が俺の膝に優しく垂れていた。俺は笑っていた気がする。




 ビーチの風が焼けた肌を撫でる。横を見ると手を繋いだ彼女は海を見ている。後ろの木が風に吹かれてサラサラと鳴いて、一生ここにいたいと思った。遠くの方で笑顔の子供を笑顔の男が追いかけていて、その笑い声が聞こえた。あの時間を俺は忘れないだろう。

 平日の昼。会社の研修中の昼休憩に同期社員と品川を歩いていた。1人でやたら話してから、未だに社会人の自覚が湧いていないのは自分だけである気がした。飲食店のあるビルに入ろうとしたところで、知らない人からのラインがあった。咲からだった。

「こんにちはーこの前の咲です。今度、秀吾くんとご飯行くことになった。あの日のことは秀吾くんに言ってないよね?」

5分も経たずに返事した。

「言ってない。あの日秀吾も相当酔ってたよね。」

さりげなくあの日の情報を聞き出そうとした。しばらくして、咲から返信。

「やばかったよ、急に走ってどっか消えちゃうしさ。しばらく流花と2人きりにしちゃってごめん笑」

やはりか。俺は流花と2人で歩いて、何かを話して、その時に靴紐を結んで貰ったらしい。

「帰ってきたら2人とも超楽しそうだった、流花のあんな人懐っこい顔初めてみたかも。」

 午後の研修は会社の規約や制度についての研修で、後半はあまり頭に入らなかった。周りを見ても全員そんな感じだ。時計を見る。自分でも気づかなかったが、俺は他人の解けた靴紐を結べる人間が好きらしい。流花のことを考えてしまっていた。暇だったからか、少し自分の気持ちを分析してみた。恋かなと思ったが、沖縄のアレが恋だとしたらそんなわけないとも思った。だって、出会いは新宿の安チェーン店だし、初対面の煌めきはなかったし。前の彼女と出会ったのは、沖縄のビーチの店で、初めて会った時は緊張のあまり上手く話せないほどだった。俺は馬鹿らしくなって考えるのをやめた。帰りに駅前の書店で村上春樹の本を買った。家に帰り、それを読んだ後に難しい洋画を観た。そして観た後はすぐ寝てしまった。



 赤い照明がデタラメに異国情緒を醸し出していた。新宿のとある居酒屋。目の前には落ち着き払った流花がいた。俺が誘ったのだった。やけに気になってしまったからだ。

「ジャスミンハイとレモンサワーで」

店員にそう告げると、流花は闇を切り裂くように突然話しかけてきて、意外な事実を聞かせてきた。

「知ってる?咲と秀吾くん、付き合ったんだって。」

「ほんと?全然そんな感じ無かったのに。」

世界は狭い。俺は虚しいシステムの中を生きている感じがした。まずいレモンサワーを一口啜った。

 飲み会は順調だった。自分のトークスキルに惚れ惚れするほどだった。だけど、この会話を盛り上げてこの先何があるのだろうか。隣の席を見ると意味深な雰囲気を持った男女が静かに酒を飲んでいた。この街は意味深なものばかりだ。

 夜も遅くなり、もう店を出ようかということになった。会計を済ませ、席を立つと流花が机を拭いていた。なんてことのないよくある行為。だけど真上の照明に照らされてなぜか神々しく見えた。

店を出る時に流花が聞いてきた。

「隆太って誰に対してもこんな感じなの?」

そうだよ、なんで?とだけ返したが、質問の真意は聞けなかった。これはどういう意味だろうか、少し気になってしまった。店を出ると東京の空はすっかり暗くなっていて、入った時とは別世界のようだった。

「新宿で飲むのも案外悪くないね、こういうビルの景色も」

歩きながらそんなことを言ってみた。

「沖縄の方がいいんじゃないの?」

「そんなことないよ。もう前の彼女から貰ったリングも売るし。」

帰ったら本当に売ろうと思った。

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