第15話(木葉視点)
「お前なぁ~」
やつの屍骸をくるんだティッシュ(六枚重ね)をコンビニの小さな袋に詰めて、ごみ箱に捨てて、兄ちゃんはため息をわざとらしくついた。その作業をしゃがんでテーブルの影から伺っていたあたしは、兄ちゃんを上目遣いで見つめる。
「――捨てた? ちゃんと奥の方に捨てた?」
「捨てた。ったく、わざわざ袋に詰めなくてもいいだろうが」
「だって、気持ち悪いんだもん」
しょうがないじゃないか、とあたしは思うが、ゴキブリに強い兄に、いつものように強くは出られない。
しかしあれをくるめた雑誌で一撃なんて凄いな、と思う。間接的に触れるのでさえ恐ろしいアレをびし、ばし、ぽいなんだもん。
「殺虫剤とかゴキブリホイホイとかなかったのかよ」
「その内買いに行こうとは思ってたんだよ? でもまさかもういるだなんて思わないじゃない」
まったくどこから入り込んできたのか、あたしはため息ひとつついて俯く。
「というわけで、ご飯食べたら買いに行くから、兄ちゃん着いてきてよ」
「――こ、断る」
晩ご飯の肉じゃがの前に座って、兄ちゃんはあたしから目を逸らして言う。
「なんでよー。たまにはコンビニデートもいいじゃんかー。なんならお菓子も買ってあげようかぁ?」
「めんどくさいし」
そういう割には目が泳いでいる。あたしはムムム、と眉を寄せて必殺の上目遣いで更に覗き込む。
「可愛い妹が夜中一人でコンビニに行くの、危ないとは思わないのかなー」
「明日の帰りに行けばいいだろ」
「ヤダ。あいつら絶対繁殖してるし」
「大丈夫だ。一日じゃそんなに増えない」
「あいつらを舐めちゃダメだよ兄ちゃん。常識でかかったらこっちが負けるよ」
「…………」
「……」
兄ちゃんが大きなため息をついて、あたしを流し目で見る。あたしはさっと目を逸らして、肉じゃがを突く。おーおー、妹はとても寂しがっているんだよ兄上。と目元でアピールしてみる。
「やっぱ夜出るのはめんどい」
「ぶぅー何よそれー。いっつも夜遅くまで出歩いてるくせにぃ」
「それはそれ。これはこれ」
ぴしゃりと言い切って、兄ちゃんは肉じゃがにようやく箸をつけた。ちらりと気付かれないように表情を伺うと、どうも奇妙な感覚がある。
ただ、面倒だから外に出ないというわけではなさそうだった。あたしには分からない理由があって、外に出たくない……いや、夜の街に出たくないように思えた。
あたしは諦めてまたため息を漏らした。あたしと一緒が嫌ってわけじゃないよね、と心で訊ねる。もちろん答えは返ってこない。あたしだって聞きたくない。
「いーよいーよ。一人で行くもん」
「気をつけろよ」
気にかけるなら……と考えたが口に出すのは止めた。
あたしは肉じゃがを食べ終え、軽く用意を済ますと、一息つく間も空けず、コンビニへ出ることにした。面倒ごとはさっさと片付けてしまうに限る。
「兄ちゃん、風呂沸かしといてね」
「洗い物もしとく」
「――うん、お願いね」
一応、悪気はあるみたい。やっぱりただ面倒なだけじゃないらしい。
もちろん理由なんて分からないあたしは、兄ちゃんに当たり障りのない笑みを向けて、玄関を出た。
一番近くのコンビニは、歩いて五分もかからない場所にある。そもそもコンビニにゴキブリホイホイが置いてあるかどうかも定かではないが、とりあえず今の時間で開いてる店といえばコンビニくらいなものなので、とにかく行ってみることにした。
夜空は晴れ渡っていて、雲ひとつなく、薄っすらと星がところどころ瞬いて見えた。その中でも月はやけにくっきりと見えて、あたしはしばらく月を見上げながら、歩いていた。
コンビニのガラス戸を通り抜けると、やけに蛍光灯が眩しく思えて、あたしは眉を寄せて、商品の並べられている棚を一つひとつ見てまわった。
化粧品の並んでいる棚、整髪料の並んでいる棚を通り過ぎると、ティッシュなどの日用品の並んだ棚へ差し掛かった。顔を上げると上段に目当ての商品を見つけ、ついでにスプレー式の殺虫剤も手に取り、レジへと向かった。
「――兄ちゃんにお菓子でも買っていこうかな」
小声で呟き、あたしは振り返って、菓子類の並ぶ棚からチョコレートとスナック菓子を買って、再びレジに戻った。
会計を済ませ、多少寂しくなった財布にため息をついて、すぐにコンビニを出た。これ以上見てまわると、また無駄遣いをしてしまう。今月はまだ画材もいろいろ買いたいから、我慢しなくちゃいけない。
とぼとぼと、あたしはまた月を見上げながら帰り道をゆったりとした歩調で進んでいた。
――また兄ちゃんは絵を描かないだろうか。
ふと、そんなことを考えてしまう。時々、本当に突然、あたしは兄ちゃんがまた絵を書き始めないだろうか、と考えてしまう時がある。
多分、子どもの頃の、兄ちゃんと絵を描いて見せ合っていた頃の記憶がそんなことを考えさせてしまうんだろうと思う。
それだけ、あの頃は充実していた。逆に言えば、あたしの今はあの時ほど充実していないんだ。
身近で父さん以外にあたしの心を震わせられる絵を描けるのは兄ちゃんだけだった。二人で、一緒に、並んでキャンパスに向かい、それぞれ描いた絵を見て、触発されて、次の絵に向かう。いつだって心は踊っていた。
だけど、今はいつだって一人で描く。並べれば誰かに見られるけど、だけど、兄ちゃんだけがあたしの絵を見てはくれない。一番、見て欲しい人だけがあたしの絵を見てはくれない。
「――どうして何だろ」
ため息が自然とこぼれ落ちる。胸の奥にある、もやもやとか痛みとかは、たぶん悲しみを抱いているんだと思う。けどそのことは考えないようにする。悲しんでるなんて思うと、虚しくなるから。
「――泣いているの?」
「――え?」
そんなことを考えていると、突然後ろから声を掛けられた。
振り返ると、そこには鮮やかな金髪をした少年が経っていた。微笑を浮かべる、十二、三歳の少年。背はあたしと変わらないくらいで、白シャツにジーンズという軽い服装をしていた。
「泣いているように見えたから」
少年は変わらぬ微笑を浮かべ、言う。あたしは突然現れた少年を少し気味悪く思いながら、言葉を探した。少年はふっと空を見上げる。
「ぜ、全然泣いてなんかないよ」
「そう? それならいいんだけど」
ふと、似ていると思った。子どもの頃の兄ちゃんの顔にほんの少しだけ似ている。もちろん兄ちゃんはこんな月のような金髪ではなかったけれど。
「き、君、ここらへんの子なの? こんな時間に出歩いちゃダメだよ」
「こんな時間?」
言われて腕時計に目を落とすと、まだ九時過ぎだった。出歩いちゃダメな時間では全然ない。
「あ、まだそんな時間でもなかったか……」
「そんな時間?」
ひょい、と近づいてきて、少年はあたしの腕時計を覗き込んだ。あたしは急に近づいてきた少年に少したじろぎ、頷く。
「う、うん。まだ九時」
「ふぅーん。クジなんだ」
ふっと、少年はまたあたしから視線を外して、空を見上げる。あたしも釣られて少年の視線の先をちらりと見た。空には月があるだけだった。
視線をそれとなく少年へと向けて、見つめる。どこか楽しそうに微笑むのは何でだろう。
「何見てんの?」
「月」
気になって訊ねると、一言で返されて、あたしは言葉に詰まる。何か、変な子だ。
「て、天体観測かぁーいい趣味してるねっ」
「しゅみ?」
丸い目をこちらに向けて、首を傾げる。少年らしい、というよりどこか幼稚臭いしぐさだ。
「でもこんな街中よりも、緑地とかの方がきれいに見えると思うよ」
あたしは街の中心にある緑地を指差して言った。枯れた大きな桜の木がある緑地の方角だ。
少年はあたしの指先を見つめ、そしてゆっくりと振り返るように緑地の方角を見つめた。
「――オウカ」
「桜花? あぁ、あの木はそんな名前だったね」
少年はあたしの言葉には答えずに、じっとうっすら見える桜の木を見つめていた。
「終わらせないといけないんだ」
「へ?」
少年は振り返り、あたしの目を見て微笑む。どこか乾いた、空っぽの笑みのようにあたしには思えた。
「僕、もう行くね」
そう、呟くように言うと、少年は踵を返して、緑地へと向けて歩き始めた。
あたしは相変わらず眉を寄せて、そんな少年の背中を見送っていた。不思議な佇まいの少年だった。今までであった事のない奇妙な感覚があたしの体に流れ込んでいた。
無ではない白。限りなくゼロに近い何か。
まるでそれは心がないかのような――そんな感覚だった。
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