蝉の声がやまない午後に
@yukinoji
第1話
今年も、セミの声がうるさい季節が来た。
それだけのことなのに、胸の奥がざわつくのは、あの夏を思い出すからだ。
陽射しも、空気も、空の色も、何ひとつ変わっていない気がして──
駅から少し離れた坂道の途中、古びたアパートの前で足を止める。
この道を通るのは、何年ぶりだろう。
風に乗って、木の上からジィィィ……と、あの音が降ってくる。
セミの声。それは、いつだって時を巻き戻すスイッチだった。
兄がいなくなった年の夏も、こんな風だった。
ぼくより五つ年上の兄は、何をするにも格好よくて、みんなのヒーローだった。
でも、あの年の八月、事故で突然いなくなった。
何も言わずに、まるで夏の夕立みたいに、唐突に。
あの日から、セミの声がずっと耳に残るようになった。
それはうるさくて、暑くて、でもどこか哀しくて。
兄が最後に言った「じゃあな、すぐ戻るから」という言葉と一緒に、ずっと心にこびりついていた。
大学を出てからは、遠くの街で仕事をするようになり、もう十年以上この町には帰ってこなかった。
それなのに、今年に限って帰ってきたのは、父の納骨があったからだ。
父はあれから、ずっと兄の遺影の前に座る時間が長くなっていった。
そして、何かが少しずつ壊れるように、静かに消えていった。
蝉が鳴いている。兄がいなくなった日も、父が泣いた日も、蝉はこんなふうに鳴いていた。
まるで何も知らないふりで、命の叫びをただ空に向かってぶつけていた。
ポケットの中の鍵を握りしめる。
父が最後まで手放さなかった、兄の部屋の合鍵。
ドアの向こうには、時間が止まったままの風景がある。
あの日から動いていないカレンダー、片方だけのスニーカー、読みかけの本──
ドアノブに手をかけたとき、風が吹いた。
セミの声が一瞬やんで、空が少し遠くなった気がした。
「……ただいま」
小さく呟いた言葉が、静かな室内に吸い込まれていった。
部屋の中は、時間が止まっていた。
本当に、あの夏の午後のままだった。
机の上に置かれたペン、畳まれたTシャツ、そしてカレンダー。
「8月14日」で止まっている。兄が帰ってこなかった日だ。
胸が詰まりそうだった。
けれど、今は逃げずに見てみたい気がした。
兄の過ごしていた時間、兄が見ていた世界を。
ゆっくりと部屋を歩く。机の引き出しを開けてみると、雑然とノートや落書きのような紙が重なっていた。
その中に、一枚だけ丁寧に折られた便箋があった。
宛名はなかった。
でも、開いた瞬間、ぼくの名前がそこにあった。
「洋平へ。」
おまえがこれを読む頃には、きっと俺はこの部屋にいないと思う。
大げさに言いたくはないけど、たぶん俺は長く生きない。そんな気がしてた。
自分でも理由はわからない。ただ、何かを急ぐように生きてたのは、どこかで分かってたからかもしれない。
おまえはきっと俺よりずっといい人生を送る。優しいし、真面目だし、ちゃんと人を大事にする。
でもひとつだけ覚えててほしい。
誰かを失っても、自分を失うな。
悲しみはなくならない。でも、それと一緒に生きていけるようになる。
俺がいなくても、おまえはおまえの道を歩いてほしい。
父さんも母さんも、ちゃんと見てるよ。俺も、どこかで。
夏の音が聞こえるたびに、少しだけ俺のこと思い出してくれたら、それでいい。
── 健司より。
指先が小さく震えていた。
兄は、何かを感じていたのだろうか。
そんな気がするほど、この手紙には迷いがなかった。
懐かしい字だった。少し不器用で、大きくて、でも力強い。
窓の外では、まだ蝉が鳴いている。
泣いて、鳴いて、まるで空に何かを訴えているみたいに。
「兄ちゃん……」
気づけば涙が頬を伝っていた。
何年も流せなかった涙が、ようやく、ようやくあふれた。
ただ泣いた。何も言葉にできないまま。
そのとき、机の上の風鈴がふっと揺れた。
音もなく、けれど確かに。
まるで、兄が笑っているみたいだった。
兄の部屋を出たのは、夕方を少し過ぎた頃だった。
日が傾きかけて、蝉の声もどこか疲れたように聞こえる。
父と母の部屋を通り過ぎると、仏壇の前で静かに座る母の姿が見えた。
小さく背中が揺れていた。
「……母さん」
声をかけると、母はゆっくり振り返った。
目が赤くなっていた。でも、その顔はどこか柔らかかった。
「洋平……帰ってきてくれて、ありがとうね」
それだけで、もう十分だった。
ぼくは何も言えずに、ただ隣に腰を下ろした。
香の匂いの中で、父と兄の遺影が並んでこちらを見ていた。
「兄ちゃんの部屋、見たよ。手紙があった」
母は小さくうなずいた。
「……あの子、事故の前の晩、あの手紙を書いてたの。机に置きっぱなしでね。どうしてか、ずっとそのままにしてた。……あなたが読む日が、いつか来るような気がして」
ぼくは目を閉じた。
たった数行の文字に、こんなにも時間が止まっていたなんて。
けれど、それは過去に縛られるものじゃなくて、未来を背中からそっと押す力になっていた。
「ありがとう、兄ちゃん。父さんも。……母さんも」
その夜、母と久しぶりに長く話をした。
昔の話、兄のこと、父のこと。
言葉にできなかった時間を、ゆっくりゆっくり溶かしていくように。
夜が更けるにつれて、蝉の声は止み、代わりに虫の音が鳴き始めた。
風が少し冷たくなって、季節がほんの少し先に進んだように感じた。
翌朝、帰りの電車を待つ駅のホームで、ふと空を見上げた。
雲ひとつない夏の空。
まだ残っていたセミの声が、遠くからかすかに聞こえてくる。
「……また来るよ」
誰にでもなく呟いた。
あの日から止まっていた何かが、確かに動き出した気がした。
もう、兄はいない。
父もいない。
けれど、心のどこかに、たしかに“いる”。
そしてその記憶とともに、これからを生きていくんだ。
電車がホームに滑り込む音がして、ぼくは一歩、前に出た。
蝉の声がやまない午後に @yukinoji
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