「生きた羊」
船木千滉
第1話「生きた羊 ― あの日の鼓動を抱いて」
幸代は、横で眠る夫の息遣いを聞きながら、読むともなく文庫本の文字を追っている。
匙を投げた神戸の医者に断わりを入れ、東京の病院を訪ねた。
だが高名な医者も夫の腹に手を当て、静かに首を振った。
あとはもう看護師と酸素ボンベをつけて、救急車で東京駅まで送ってくれた。
夫は今、新幹線の多目的室で寝息を立てている。
その寝顔を見ながら幸代は、上京の前日に夫が言った言葉を思いだしていた。
「おい、あの本を持ってきてくれ」
そう言う夫に、幸代はいつものように抗った。
「東京へは、診察に行くのですよ」
だが夫は普段通りに言いかえした。
「東京まで、どれだけかかると思う」
そう言って、枕元に置いてある本を持ってこいと言った。
それは『夢のまた夢』というタイトルで、何度も読んだのであろう、歴史物の文庫本だった。
それを今、幸代は静かにめくる。
『人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり』
『露と落ち 霧と消えにし 我が身かな 浪花のことは 夢のまた夢』
『先に行く あとに残るも 同じこと 連れて行けぬと わかれぞ思う』
いったい夫は、自分の死を覚悟していたのか。
元には戻れないと、自覚しているのか。
そう思うと、幸代は、止めどなく気が重くなる。
誰が詠んだにせよ、天下人が『夢』だというなら、やはり手にしたつもりが流れおちる水の如く、人生は儚いものなのであろう。
――でも、早すぎる。こんなに早く――
そう思うと、幸代はもう本を読めなかった。
その時、列車が揺れ、ふと夫の寝息が止まったかと思うと、掠れた声で呟いた。
「俺……羊を担いでなあ……」
「ひつじ?……羊、ですか?」
「暑い日でなあ、俺は羊を担いで……死ぬかと思った。でも、生きていたんだ」
目を閉じたまま、ぽつぽつと語りはじめた。
(つづく)
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