第2話「魚姫、包丁を握る」


朝の光が川面に反射し、揺れる水面が淡く輝いていた。


セレナ=アーデルハイドは、昨日の激闘の果てに釣り上げた大魚——リヴァリウスを前に、ふふんと鼻を鳴らした。その魚体は子供ほどの大きさがあり、銀鱗が朝日にきらめいている。王都の晩餐会で出される高級料理など比にならないほどの存在感に、近くの村人たちが木陰からそっと様子を覗き見していた。


「これぞ、わたくしの釣果ですわ! ご覧なさい、この勇ましくも美しい魚体を!」


手を広げ、誇らしげに微笑むセレナ。しかし、その表情の裏で、胸の内にわき上がる不安が彼女を揺らしていた。


(ところで……これ、どうすればいいのかしら)


彼女の釣りの知識は、昨日、少年アルから借りた釣竿の使い方まで。魚を釣った“その先”に関する知識は、見事に白紙だった。


「なあ、お嬢ちゃんよ」


背後から聞こえた声に、セレナはぴくりと肩を揺らす。振り返れば、アルが腕を組んで立っていた。口元には、苦笑とも呆れとも取れる表情が浮かんでいる。


「その魚、どうすんだ? 飾るのか? 眺めるのか? それとも話しかけるのか?」


「ば、ばかなこと言わないでくださいまし。もちろん、食べますわよ!」


「じゃ、捌くんだな?」


「……え?」


セレナの顔が凍りつく。その反応に、アルが一歩前に出て声を低くする。


「釣っただけじゃ腹は膨れねぇ。そいつを料理するには、まず“さばく”んだよ」


「さ、さばく……。つまり、その……包丁で、ええと、骨を断ち、皮を……ぺろっと?」


語尾がか細くなっていくセレナ。誇り高き令嬢は今、知らぬ世界に足を踏み入れたのだと悟っていた。


「……やれやれ」


ギルバート=クラウザー、通称ギル爺が、木陰の馬車からため息交じりに姿を現す。その手には、すでに小さな調理用の包丁とまな板が収まった木箱が握られていた。


「さすがギル爺! 準備がいいですわね!」


「お嬢様が行き先も決めず旅に出る時点で、いずれこうなると覚悟はしておりましたとも」


肩をすくめながらも、ギル爺の目にはどこか温かみが宿っていた。付き合いの長さから、セレナの突飛な行動の先にある“真剣な想い”を感じ取っていたのだ。


「ふふ……それなら、やってみせますわ!」


セレナはリヴァリウスに向き直り、ぎこちなく包丁を構えた。その姿は、昨日の勝利の余韻から一転して、また新たな挑戦への幕開けを感じさせた。


その場にいた誰もが、令嬢の小さな一歩を、息を飲んで見守っていた。


  * * *


「よし、さっさと捌いてやるか——」


アルが腰を下ろし、魚の腹に手を伸ばしかけたその瞬間、セレナの声が鋭く飛んだ。


「待ってくださいまし!」


驚いたアルが手を止める。セレナは顔を強張らせながらも、ぎこちなく前に出ると、息を呑んで言った。


「それは……わたくしがやります」


「へぇ、本気で言ってんのか?」


「当然ですわ。わたくしが釣った魚ですもの。最後まで責任を持ってこそ、本物の釣り人というものですわ!」


言い切った自分の声が、やけに大きく響いていた。言いながら、セレナは心臓が跳ねるような感覚に襲われていた。釣り糸を垂らしていただけの昨日の自分とは違う、何か新しいものを、自分の中に芽生えさせたい——そんな思いが胸を押していた。


ギル爺がゆっくりと馬車の荷台から木箱を取り出す。そこには包丁とまな板、簡易な水桶などが揃っていた。


「これでございます、お嬢様。……よろしければ、補助いたします」


「ありがとう、ギル爺。……でも、まずは自分でやってみますわ」


包丁を受け取ったセレナは、一瞬、その重さに目を見開いた。今まで食器より重い刃物を持ったことなどない。リヴァリウスの銀色の鱗が、朝日に鈍く光っている。美しい。だけど今からこの命を、自分の手で開くのだ。


「腹を……裂くのですね?」


「はい、まずは腹から。刃は斜めに、力は抜かずに——」


ギル爺の助言を背に、セレナはおそるおそる包丁を当てた。ぬめりが指にまとわりつき、包丁が滑る。


「きゃっ……! つ、冷たっ……ぬるぬるしてますわ……!」


「当たり前だろ、生き物なんだからよ」


アルが呆れたように言うが、どこか笑っている。セレナは顔をしかめつつも、思い切って刃を動かした。腹が割れると同時に、内臓がずるりと飛び出す。


「う、うわああああ……!」


思わずのけぞるセレナ。しかし、目を背けずに、もう一度包丁を握った。


(釣った魚を、最後までいただく。それが本当の“釣り”なら……)


泥に膝をつき、服の裾が汚れるのも構わず、セレナは格闘を続けた。途中、魚の血が手元に飛び、思わず「きゃっ」と悲鳴を上げることもあったが、それでも何とか形になりはじめる。


いつしか、近くにいた村の子どもたちが集まっていた。


「お姉ちゃん、すっげぇ……」


「こっちの令嬢、泣きながらでも頑張ってる!」


「さっきまで、魚に話しかけてなかった?」


「それな」


笑いと小さなどよめきが広がる中、セレナは内心むず痒くなりつつも、ようやく最後の骨を断ち切る。


「……できましたわ……わたくし、やりました!」


泥だらけの姿で立ち上がったセレナに、ギル爺がそっと手拭いを差し出した。


「初めてにしては上出来です。……立派でしたよ、お嬢様」


その言葉に、セレナは初めて、誇らしさと少しの涙が混じった笑顔を浮かべた。


  * * *


焚き火のまわりに、素朴な香りが立ちのぼっていた。


川魚の身をほぐしながら、セレナは木製の皿に丁寧に盛りつけていく。捌いたリヴァリウスの塩焼きに、骨からとったスープ。決して豪華ではないが、どこかあたたかく、心を満たしてくれるような匂いだった。


「うまっ……!」


子どもたちの歓声が上がる。村の子供だけでなく、隣家の老婆までが手を伸ばしている。


「ほんとに、この嬢ちゃんが作ったのかい?」


「捌いたのも、焼いたのも……うちの馬鹿息子じゃないってのは確かだね」


セレナは照れ隠しに軽く咳払いしたが、頬はほんのり赤らんでいた。ふと見やった先では、ギル爺が皿を片手に彼女に目を細めていた。


「立派な“釣果”でございますな。味も心もこもっております」


「ふふ、当たり前ですわ。だって、わたくしが……本気で釣った魚ですもの」


その言葉のあとで、セレナは焼き魚の骨だけになった姿を見つめる。


——確かに、釣ったときは嬉しかった。捌くのは怖かった。でも、それでも自分の手で、命を向き合い、食卓へと変えた。


その一連の流れのすべてが、どこかしら心の中をじんわりとあたためてくれるようだった。


「……ねえ、ギル爺」


「なんでございましょう、お嬢様」


「わたくし、この魚に名前をつけたいのです。“釣った魚の記録”ではなく、“物語”として残しておきたい気がして」


ギル爺が驚いたように眉を上げた。その横ではアルが魚の骨をしゃぶりながら「また妙なこと言い出したな」と呆れている。


「名前、ですか?」


「ええ……“言霊”とでも呼びましょうか。旅のなかで釣った魚、一匹一匹に、わたくしの想いを込めて名前を残すのです。ふふ、素敵だと思いません?」


言いながらセレナは、立ち上がって魚の頭骨に手を当てる。そして、晴れやかな声で宣言した。


「この魚の言霊は——『大いなる挑戦(Défi Majestueux)』!」


言葉が広場に響き、焚き火の炎がふっと揺れるような気がした。


「この魚は、わたくしの旅の始まりを告げる存在です。恐れず挑むことの大切さを教えてくれた……そんな意味を込めて」


しんとした沈黙のなか、ギル爺が手を打った。


「……見事な名付けでございます。お嬢様の釣りが、旅となり、物語となる。まさに“令嬢の釣り道”にふさわしい一歩かと」


セレナは嬉しそうに微笑みながらも、ほんの少しだけ瞳を潤ませた。


焚き火のそばでは、ひとりの子どもが魚の頭骨をそっと持ち上げ、「これ、お姉ちゃんの記念に取っておくね」と言った。


セレナはその姿に微笑み、静かに頷いた。


その夜、彼女は初めて「魚を釣ること」が単なる趣味ではなく、自分自身の表現になり得ると知った。


  * * *


翌朝、ひんやりとした川辺に澄んだ風が吹いていた。焚き火の灰が冷えきる頃、昨日の宴の名残はまだそこかしこにあった。


セレナは、風に揺れる「釣果の記念札」のひとつを見つめていた。木の板に幼い筆跡で書かれた言霊『大いなる挑戦』——それが今、彼女の心のなかで新しい意味を持って鳴り響いていた。


「……別れから始まる旅もあるのね」


そう呟いたとき、背後から聞き慣れた、少し不機嫌そうな声が届いた。


「ほんとに行くのかよ。あんたみたいなの、ここじゃ珍しかったのにさ」


アルだった。目をそらし、手をポケットに突っ込みながら立っている。けれど、その目元にはどこか寂しさが滲んでいた。


「ええ、行きますわ。わたくしの“釣り道”は、ここで終わりませんもの」


セレナはやわらかく笑った。だが、その瞳の奥には、自分でも気づかぬほどの名残惜しさが揺れていた。


アルはぼそりと呟くように言った。


「……ま、こんなとこでくすぶるには、もったいない奴だったしな」


そう言って差し出したのは、手ぬぐいに包まれた小さな包み。


「親父が漬けた干し魚。保存効くやつだ。……旅の途中で食え」


セレナは受け取り、目を見開いたのち、ゆっくりと微笑んだ。


「あなた、無愛想だけど優しいところあるのね」


「言うなって。……背中が痒くなる」


照れ隠しのように背を向けるアル。その背中を見ながら、セレナは一歩近づいて口を開いた。


「わたくし、次に会うときには、あなたが驚くような魚を釣ってみせますわ。その時は、また評価していただけるかしら?」


「おう……あんたの釣り、なかなか面白ぇからな。楽しみにしとくよ、“魚姫”」


その言葉に、セレナは一瞬だけ驚いたように目を見開き、すぐに笑った。


「“魚姫”……ふふっ、悪くありませんわね。いただいておきます」


ギル爺が手綱を整え、馬車の扉を開けた。


「お嬢様、準備が整いました。次なる釣り場へ?」


「はい、行きましょう。釣って、捌いて、味わって、名付けて……それが、わたくしの釣り道ですもの!」


馬車が軋みを上げて動き出す。村の子どもたちが手を振り、アルが木陰から目を細めてそれを見送っていた。


「また来いよ、魚姫!」


朝日に背を押されるように、セレナは笑顔で手を振り返した。


心のどこかで、別れが旅のはじまりだと知った彼女は、もう振り返ることなく前を向いた。


その瞬間、セレナ=アーデルハイドは“令嬢”から、“挑戦者”へと確かに一歩踏み出したのだった。

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