捨てられた妻は、地獄の底から微笑む 〜全て奪われた女の完全勝利〜

ソコニ

第1話 崩壊の瞬間



十月の夕暮れ、品川の高層マンション三十二階。


一条柚葉は洗濯物を畳みながら、窓の向こうに沈む太陽を眺めていた。三十四歳。結婚して十年、専業主婦として過ごした十年間が、この瞬間に崩れ去ろうとしていた。


リビングのテーブルに置かれた夫・健吾のスマートフォンが光っている。さっき慌てて出かけた彼が忘れていったものだった。


「また忘れ物……」


柚葉は溜息をついた。最近の健吾は忘れっぽく、イライラしていることが多い。株式投資での独立を目指して三年、成果は芳しくない。むしろ損失の方が大きかった。


そのために柚葉は外資系コンサルティング会社での年収一千二百万円のキャリアを捨て、夫を支えることを選んだ。愛する人の夢のために。


スマートフォンが再び光る。メッセージの通知音が鳴り続けている。


「緊急かもしれない……」


柚葉は恐る恐る画面を見た。ロックはかかっていない。


画面に表示されたメッセージで、彼女の人生は終わった。


『健吾くん、今夜も会えないの?寂しい❤️』


送信者の名前は「沙羅」。


柚葉の手が震えた。その名前に覚えがあった。五年前、就職活動で苦戦していた後輩の女性。柚葉が業界の人脈を紹介し、履歴書の添削まで手伝った相手だった。


メッセージはまだ続いていた。


『奥さんにバレないように気をつけてね』

『でも早く離婚してよ。私、もう待てない』

『あんな老けた専業主婦より、働いてる私の方がいいでしょ?』


柚葉の視界が歪んだ。血の気が引いていく。


さらにスクロールすると、写真が添付されたメッセージがあった。ホテルのベッドで撮影されたと思われる、裸の女性の後ろ姿。そして健吾らしき男性の手が写り込んでいる。


「嘘でしょ……」


柚葉の膝が崩れた。床に座り込みながら、震える指でメッセージ履歴を遡る。


二ヶ月前から始まっていた。最初は業務連絡のようなやり取りが、徐々に親密になっていく。そして一ヶ月前から、明らかに肉体関係があることを示すメッセージが交わされていた。


『柚葉のことはもう愛してない』

『君といると生きている実感がある』

『来月には離婚の話を切り出すから』


健吾の言葉が画面に踊っていた。


玄関のドアが開く音がした。


「柚葉、携帯忘れたから取りに……」


健吾が戻ってきた。リビングに入ると、床に座り込んでスマートフォンを握りしめている妻の姿が目に入った。


「何やってるんだ」


健吾の顔が青ざめた。だが次の瞬間、開き直ったような表情を見せた。


「見たのか。なら話が早い」


「健吾……これって……」


柚葉の声は震えていた。まだ現実を受け入れられずにいた。


「そのまんまの意味だよ」健吾は冷たく言った。「俺には沙羅がいる」


「私は……私はあなたのために全てを捨てたのに」


「誰も頼んでない」


その言葉が胸を貫いた。十年間の結婚生活、捨てたキャリア、支えてきた日々。全てが否定された瞬間だった。


「どうして沙羅なの?私が面倒を見てあげた子よ」


「だから何だ?」健吾は肩をすくめた。「沙羅は若くて美しくて、働いている。おまえとは大違いだ」


「私だって働いていたのに……あなたの夢のために辞めたのに……」


「それは昔の話だろ。今のおまえを見ろよ」


健吾は柚葉を見下ろした。


「化粧もしない、オシャレもしない、家にいるだけの女。正直、女として終わってる」


「ひどい……」


「現実を言ってるだけだ。沙羅を見てみろ。二十六歳で、キレイで、キャリアもある。俺を必要としてくれる」


柚葉は立ち上がろうとしたが、力が入らない。


「話し合いましょう。きっと解決できる方法が……」


「もう決めたんだ」健吾は時計を見た。「来月には離婚届を出す。慰謝料は払えないから、そのつもりで」


「待って」柚葉は健吾の足にすがりついた。「お願い、もう一度考え直して」


「離せ」健吾は柚葉の手を振り払った。「見苦しい」


「私を……私を捨てるの?」


「捨てるって何だよ。もともと何の価値もないじゃないか」


健吾は着替えを始めた。「今夜は沙羅のところに泊まる。明日からもしばらく帰らない」


「お願い……」


「もうウンザリなんだよ、こんな生活」


ドアが閉まる音。柚葉は一人、薄暗いリビングに取り残された。


涙は出なかった。代わりに、胸の奥で何かが音を立てて壊れていく音がした。


「価値がない……」


柚葉は洗面所に向かい、鏡を見つめた。確かに老けていた。しわも増え、髪も艶を失っている。十年間、家事と健吾の世話に明け暮れた結果がこれだった。


でも、それは健吾のためだった。彼の夢を支えるためだった。


なのに。


「女として終わってる」


その言葉が頭の中で反響する。


柚葉は鏡の中の自分をじっと見つめた。疲れ切った専業主婦の顔。だが、その奥に何かが宿り始めているのを感じた。


怒り。屈辱。そして、静かな狂気。


その時、携帯電話が鳴った。非通知の番号だった。


「はい」


『一条柚葉様でしょうか。転職エージェントの田中と申します』


「転職?」


『五年前にご登録いただいた件でご連絡しました。外資系コンサルティングでのご経験をお持ちとのことですが』


柚葉は受話器を握りしめた。五年前、健吾の投資が上手くいかなくなり始めた頃、万が一に備えて登録していたサイトがあった。


『急募の案件がございます。即戦力を求めており、年収は一千万円以上確実です』


一千万円。健吾が年間で失っている投資損失額と同じ金額だった。


『ブランクは問題ありません。むしろ、人生経験を積んだ方を求めています』


「いつから働けますか?」柚葉は自分でも驚くほど冷静だった。


『来週から面接を開始できます。ご都合はいかがでしょうか』


「お願いします」


電話を切ると、柚葉は深く息を吸った。


健吾は彼女を「価値がない」と言った。沙羅は彼女を「老けた専業主婦」と呼んだ。


なら、証明してやろう。


本当に価値がないのは誰なのか。


本当に終わっているのは誰なのか。


柚葉は再び鏡を見つめた。今度は違って見えた。眠っていた何かが、静かに目覚め始めている。


キッチンに戻ると、夕食の準備が中途半端に残されていた。健吾の好物のカレーライス。柚葉はガスを止め、材料を片付けた。


もう、健吾のために料理を作ることはない。


もう、誰かのために自分を犠牲にすることはない。


夜が更けていく中、柚葉は静かに計画を練り始めた。復讐ではない。再生だった。そして、十年間奪われ続けたものを、全て取り戻す戦いの始まりだった。


健吾のスマートフォンに、また沙羅からメッセージが届いた。


『明日は一緒にいられる?愛してる❤️』


柚葉はそれを冷たく見つめた。


二人とも、まだ気づいていない。


地獄の扉が、静かに開かれたことを。


そして、この戦いで勝つのは誰なのかを。

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